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この号で48号になりました。馬鹿な男に永らくおつき合いを頂きまして、誠にありがとう御座いました。78歳まで生きてきて少しでも良いことが出来たのかと言われても、何もなかったと言うしか無いのですが、厚かましくも、少しくらいよい事をしたと言えるとすれば、経営者ニュースを書いてきた事ぐらいです。 78年生きて来て、良いことはたくさん有りました。両親に慈しみ育てられたこと。良き連れ合いに巡り会えたこと。優しい子供に恵まれたこと。それに本当の師に出会えたこと。危うく死ぬところを良いお医者さんに何回も救われたこと。いろいろな薬にも助けられました。空はあくまでも青く、雲はあくまでも白く。鳥が鳴き、蝶が舞い、バタやんの歌があり、映画愛染かつらがあり。アニメ千と千尋の神隠しがあって、ホンにこの世は、極楽です。 師には恵まれました。小学校4年生の時に受け持ちの福万先生は、いまだに親交があり、私の軍隊嫌いは福万先生ゆずりです。小学6年の時、肋膜炎を患い、池田先生(医師)は、この子は、ひびの入った身体やから、中学は勉強せんならんから商業学校へ行きなさい。商業学校やったらあまり勉強せんでも良いからと、勉強ギライな私に願ってもない勧告があって、勇躍、日新商業にコネで入りました。担任の中塚先生は、動員で工場へ行くことになった前日、「諸君は勉強のために学校へ来ている、しかし、時局柄致し方がない、みんな工場へ行ってヨロシクやって来い。」と激励?された。あの一言は生涯忘れることはないでしょう。彦根高商を出て母校へ赴任した銀猫コト西門先生には簿記を徹底的に叩き込まれた。こんにち税理士であるのも、全部アノ先生のお陰です。ヒヨコこと大塚先生には卒業後大塚公認会計士事務所に就職して税理士の基礎から教えていただいて、税理士で飯が食える様になりました。 玄米コト林先生にも世話になりました。他にたくさんの先生に導かれて、今日の私があるのですから、どれだけ礼を言っても足りない訳です。結核で死ぬところを助けて貰ったツツミ先生、家内が大腸ガンで死ぬところを助けていただいた塘先生と曽我部先生、ガンの転移を押さえて完治していただいた横内先生、心筋梗塞で死ぬところを助けていただいた塘先生、カテーテルでステントを入れて貰った梅田先生。その他にどれだけの先生に救われたのでしょう。その割に何の恩返しも出来ず、申し訳ない気持ちで一杯です。 これからは、欲念を離れて新しいサイエンスを解説して行きたいと思います。ご恩返しのつもりで努力したいものです。ありがとう御座いました。 2005年4月23日日曜日 泉尾病院病室にて。 赤尾義明 6月10日過ぎに下記へ移転します。 新住所は大阪市天王寺区玉造元町7−2セレッソコート真田山アクティア1001号です。 090−5096−9736 義明携帯 090−8984−3443 寿子携帯
心筋梗塞という忍者のような病気 身体が弱くて苦労した話はさんざん書いてきました。体には随分気をつけてきたつもりでした。ところがそれでも油断があったのです。隙をつかれたと言うか心臓が止まりそうになっているのに、気が付かずに平気でいたのです。 心筋梗塞と言う3大死因と言われる病気に冒されているのに平気で歩いていたのですからたまりません。全く「アホ」と言うより他に言いようがありません。道を歩いて居て背骨が痛くなって歩けなくなって道ばたでしばらく立ち止まったり、うずくまって収まるのを待って収まってから歩き出すことが2度ほどありました。時間にしてものの3分から5分くらいです。そして収まると後は何事もなく歩いて行けるのです。その時は不整脈がありました。 それから夜中に明け方だと思いますが、眠っていて背骨が痛くて目が覚めて4〜5分起きて収まるのを待って何事もなかったように朝まで眠って朝は快調に起きてくることが2回ほどありました。その時も不整脈が強く出ていました。 そして最後に3連休の初日の夕食時に急に背骨が痛くなって起きて居れなくて。畳の上で、もだえ苦しむ程でもなく、ばたばた暴れる程でもなく、然しじっとして居られないくらいの痛みでそれも4〜5分で収まり。大したことないと思わせる程度の症状でした。然しその時に脈を取ってみるとかなりの不整脈が有りました。以前にも不整脈があって、かなり頻繁に起きるようになって、塘先生の薬で治して貰った経験から、今急にどうと言うこともないな、火曜日に先生とこへ行って来ようと決めて平気で暮らして居りました。(三連休で月曜日が休みだったのです。) 若い頃に肺結核で薬のない時に、健康法として板の上で寝る健康法をやっていたことがあるのですが、1年程前からベッドを使って居て、ベッドのふわふわのスプリングが気に入らなかったので、板を敷いて寝ることにしようと板をコーナンへ買いに行きました。(ホームセンターです。)1メーター×2メーターの板は乗用車に積めないので1メーター×1メーターの板を2枚買って帰りました。ガムテープでつなぎ合わせるつもりです。 少し薄くてしなうのですがこれくらいが適当だろうと。判断したのです。その上で寝てみたのですが身体は思っていたより重くて、しなり過ぎるように思います。やっぱり1センチ位の厚みのあるベニヤでないと駄目だなと4〜5日してから日曜日に再び出かけました。 その時に、買いに行くのが大儀になって、誰か買いに行って欲しいなと思いました。こんな事は今まで思ったことがありません。そのために良く覚えているのですが、誰か買いに行って来て欲しいなとしみじみ思いました。それでも気を取り直して、自分で出かけて行って目当ての板を買ってきました。配達を頼んだら三日四日かかるというのです。そしてそれを頼んでその板が来る前に火曜日に塘先生の所へ車を運転して行きました。先生は聴診器を当てて馬が走っているような音がしている、気に食わんな、と言いつつレントゲンを撮り、心電図を取って、「こらアカンがな心筋梗塞や」と救急車の手配をして病院へ電話をして貰って私は助かりました。 心臓の冠動脈の3本の内の一本が詰まって血が通わなくなって居たのです。私は心臓へカテーテルを入れるのは足首から血管を切り開いて入れるのだとばかり思っていました。そしてそんな事をするのは心臓外科だとばかり思っていました。ところが事実は右手の肘の所(いつも静脈注射をするところの近く)の動脈からカテーテルを入れるのです。そして手術は循環器内科の先生です。全く驚きました。私は内科の先生がそんな外科的手術をするなんてブラックジャックの出現のように思いました。(内科も外科も出来るのなんて名人医師だと思いました。) 手術中にカテーテルを入れているときに一回だけ背骨にズキンと痛みが走りました、あぁ心臓と背骨の神経が繋がってると実感した瞬間でした。手術が終わって、先生が終わりましたと告げられたときに一瞬頭を上げて足元を見たら、モニターに自分の心臓が動いているのが見えました。見た瞬間アソコやとひとめで詰まってるとこが分かりました。自分は危うく死ぬところだったと一瞬にして納得しました。本当に今までに、お医者さんにどれほど助けて貰ったのか分かりません。有り難いことです。『人生、いきちょるだけで丸儲け!』と朝の連ドラで言ってます。感謝!感謝!感謝!病室に帰って、右手は動かせません。3時間ほど安静です。 今の今まで、自分が死に瀕していると思って居なかったのですからマンガです。「北斗の拳」ならもう「お前は既に死んで居る」と戯作者に退場と書かれてしまうところでした。悪運強く生き残り、有り難いことだと感謝して、世の中へ少しでもお返しが出来たらと思っています。 同室6人の中に、戦時中に戦艦陸奥に乗っていたという人が居ました。向かいのベッドに妙高に乗っていたという人が居て。思わず重巡の妙高?と聞き返す。何か戦時の亡霊が出てきたような気になる。陸奥は呉の軍港でメンテナンス中に火薬庫の大爆発を起こして自爆した。そして妙高はフイリッピンの何とか海で米軍に沈められたそうだ。ミンダナオと言ったか暗闇の中を漂流したときの心境をもっと聞き出そうと思ったが、あまり聞く間がなかった。駆逐艦が助けに来てくれたらしい。ロープですか縄ばしごですかと聞くと、網らしい、網を弦から降ろしてくれるのらしい。甲板まで上がるのに精一杯で上へ上がると古参兵が力任せに顔を殴るのらしい。「へー何で」と聞くと、やれやれと安心するとそれで息が切れて死んでしまうものが居るのだという。戦争の過酷さに今更ながら驚いた次第です。妙高と言われて重巡のと聞き返した私はそんなに軍国少年ではなかったのですが、それでも妙高=重巡と間髪で出てくるのが自分でもおかしいくらいです。75才から80才くらいの人には戦争の体験が今でも生きているのです。 日本がアメリカと戦争をしたのですから、当時の日本人は悲壮な思いだったでしょう。日米開戦のラジオ放送を聞いたとき、瞬間にアッ負けると思ったのは私だけではないと思うのですが、そう言うとソンナこと今やから言えるので、当時はそんなこと誰も思うはずがないと、きつく叱られてあまり言わなくなりましたが、私は一瞬そう思いました。日清日露は、うまく行ったがアメリカはそうは行かんぞ。と言うのが私の感想でした。 安藤先生にこの話をしたら、そんなことはない、当時のインテリは口では出さんでも内心ではみんなそう思っていたと太鼓判を貰った。矢張りそう思っていた人も居たのだと思う。もっとも安藤先生の言うインテリは麻布中学生で東大の医学部卒の先生の友人達だから並のインテリではないのだろうが。そう言うと私も東大医学部の人並みだとは、誰も言うて呉れないので、自分で言うとけば今日は私の誕生日だから、今日から78才の人間の言うことだから免責されるかと厚かましくも書いておきます。笑って下さい。 学校さぼって、工場さぼって(学徒動員で工場へ行って居たので)映画見に行って洋画と言うアメリカ映画かフランス映画を見て居たので、アメリカの実力を曲がりなりに理解していたのでしょう。 戦時中軍隊が嫌いだったのに、今頃になって弱腰の政治に憤慨したり、右翼になったような気がします。戦中戦後リベラル派のつもりだったのに、右翼的な自分に少し違和感を覚えております。安藤先生のご忠告どおり、無理せず疲れたら即時休息を心がけて、助けて貰った命を大事にしたいと思います。 私には宝物があります。自分の心臓がドックドック脈打っているのが見られるCDがあるのです。ひょっとしたら私の手術を担当してくれた梅田先生もご自分の心臓のCDは持ってはれへんのとちゃうやろか。 とにかく、自分の心臓のCD持ってて何時でもパソコンで診られる患者の第1号だと自慢して居ります。見たい人は申し出て下さい。「誰もいらん」て、そう言わずに見てえな。タダにしときます。何やったらコーヒーくらい付けますがどうですか。それでもいらんて殺生や!人がタダで見せたる言うてんのに。ブツブツブツブツ。 随分以前から、なにやら怪しいもの、不思議なものに、のめり込んで大分ひんしゅくを買っていると思うのです。そんなことは百も承知で書いているのですが。そろそろ私も自分に引導を渡すべき時が2年以内に来るようです。今78歳ですから、80歳には届かぬようです。自分の寿命みたいなもの解るはずがないので、だから生きてられるのだと良く聞く話です。 しかし、天外伺朗さんの説によると、悟りを開いた人は自分の死期がわかり、説教したり、宴席を設けたりして笑いながら死んでいくそうです。(マハーサマーディ研究会を主催されています。) 私など悟りを開くのはまだまだ遠い話で、悟りのサトまでも行かない下司人間ですが、志だけは持っていたいものだと思っています。 マハーサマーディとは、「ヒンドゥ教の僧侶は、往々にして何月何日何時に自分が死ぬかを正確に予期するようです。その日が来るとパーティを催し、弟子達と呑んだり食べたりして、別れの挨拶をして、死の瞑想に入ります。様式がきちっと決まっており、3回ぐるぐるっと回って、北を向いて瞑想します。そして何の苦しみもなく,至福のうちに肉体を離脱します。これをサンスクリット語でマハーサマーディと呼びます。云々とあります。」 悟った人はそうなるのかも知れませんが、悟らぬ私などはどうすればよいのでしょうか。死ぬときは人間は脳内物質で麻薬の10倍くらい強力な脳内麻薬物質が分泌されてA10神経を興奮させて恍惚の中で死んで行くというのです。 そんなうまい話があるのかどうか眉唾物だろうと言うのが一般常識人でしょう。それだからマハーサマーディの会に入って研究してみようかなと言う私はアホのアホたる所以でしょう。アホはアホらしい事しか考えられないのでしょう。と言いながら未だ入会はしておりません。そこまでは未だ確かな所があるのでしょうか。ますますアホにのめり込んで、アホはアホらしく生きて、アホらしく死んで行くのでしょうか。どうでしょう、ちょっと関心が湧きましたでしょうか。
ホームページをいよいよ作ることになりました。どんなものが出来るでしょうか。経営者ニュースはこれから、そちらで発表する事になると思います。郵送はこれが最後のつもりです。赤尾会計事務所のホームページにご期待下さい。
世の中にはいろいろな人が居るもので、不思議研究所を開設している、森田 健と言う人は、アメリカで幽体離脱をやり、チベットで輪廻転生の村を訪ね、死んだ金魚を生き返らせる機械を作った人を捜し出したり、六爻占術占術を発掘したり随分教えられました。またソニーでCD(コンパクトデスクを発明した。)を作った天外伺朗と言う人は、量子物理学や心理学からあの世とこの世の仕組みを考えたりとても愉快な人です。またナショナルで音響機器を開発していた佐治晴夫と言う人との対談など会社の関係ではとても実現できないような事をやっています。他にも生き甲斐論で息子と同年代の飯田史彦と言う人の「生きがいの創造」などというとんでもない本を書いたど心臓な人、水に音楽を聴かせたり、字を見せて結晶を作って水の意志か、意識かを表現したり、する江本勝と言う人。右脳を開発して子供に超能力を発揮させたりする七田真と言う人など、世の中はまさに多士多才で溢れかえっています。 私は20歳台で、極楽とは死んでから行くとこでなくて、いまここに居て、ここが極楽なんだと気が付いたときから、「生は寄、死は帰」と思って来ました。 最新の理論物理学では、超ひも理論で宇宙は10次元だとされているのですが、私に言わせれば、5次元は全く気が付かない所に(即ち隣というはおろか、全く重ね合って存在しているのに気が付かないだけで、隣と言うもおろか、重なり合って存在しているのです。)見えないだけで、それが中には見える人も居るのです。見える人がチャネラーとか、ヒーリングが出来る人が時には居るのです。 こんな事を言うからみんなに馬鹿にされるのですが。しかしいろいろな人が、色々言っているのはみんな嘘八百ではなくて、みんなそれなりに真剣に言っているのです。 ロケット博士の糸川英夫さんは、電子、光子のように霊子を考えれば、輪廻転生も理解できると言っています。 東京都知事に立候補した中松義郎博士は、永久機関を発明したと言っています。突拍子もないことを言って煙に巻くと言う手もあります。そんなこと言って怖れて居たら世の中は進歩しません。よく調べて本物か偽物か区別して本物ならそれに乗ってみる必要があるのではないでしょうか。 もう少し調べて見るつもりです。 このごろ経営者ニュースは病気ばかりで鬱陶しい、花見の話書いてえなと注文されました。全くその通りで、病気の話はこの辺で終わりにしょうと思っています。ただ経営者は孤独で無理していますので、身体に気をつけて欲しいのです。社長が倒れると、中小企業では倒産になる事が多いのです。だから私の体験を他山の石として、勉強して欲しいのです。私の顧問先は私と年代が似ていて、老化しているところが多いので少しでも参考になればと思っております。 忍者のように忍び寄る心筋梗塞と言う病気があると知っているだけでも、用心が出来ればよいと思います。 あまり歩かない人は前立腺肥大に罹りやすいく、運動不足が心筋梗塞に罹りやすいと知る事も大事だと思うのです。 ガンに罹っても生き延びる方法があると知っているだけでも心強いと思います。私の如きは前立腺ガンに罹っているのに、横内先生の漢方も中断して、そのまま何もしていません。僅かに粉寒天をやっていますが、ダイエットが目的で、ガン対策の為ではありません。 それで平気で居れるのは、無知からではなくて、ガンの恐ろしさを万事承知の上で平然と過ごしているのですからアキレタものです。理由は78歳になってガンで死ぬとは限らん。死因には、肺炎、脳梗塞、流感(インフルエンザ)、風呂で溺れる、喉に餅を詰める、喘息に罹るなど、人は何で死ぬかわからん。列車の事故もあるのです。と言う単純な理由からです。やっぱりアホは死ぬまでアホか。 下手で馬鹿な話におつき合い下さった方に、心からお礼申し上げます。アホはアホなりに一生懸命に書いてきました。インターネットに載せるとなると楽になります。パソコンは安くなって5万円位から有ります。インターネット未だの人は、始めて下さい。お勧めします。インターネットにはろくな情報が無いという人も居ますが、そんなことはありません。 下手ですが、無料で勉強会しても良いと思っています。希望者は電話下さい。
入 院 日 記 2004年10月12日火曜日晴れ 9時になるのを待ちかねてツツミ医院へ行く。 10時から診療とある。待つ間は何の不安もなく、診療開始を待つ。車を隣の駐車場に入れてしばらく待っていると、一番に呼ばれる。先生は聴診器を胸に当てて、馬の走るような音がする、気にいらんな。と言いつつレントゲン、心電図をとる。 先生が心電図を見て、これはあかんがな入院やと、あれよあれよという間に病院の先生に電話を架けて大正区の済生会泉尾病院に入院と決まった。心筋梗塞を起こしているがな、1週間か10日ほど前からやろと言われて、それでもこちらは呆気にとられてポカンとしていた。電話を次から次ぎへと架けて、事情を説明して、頼むでと頼んで居られる。私はまだ自分で車を転がして行くつもりだが、どうやらアカンなと息子を呼んで、連れていって貰うことにしようと電話を架けたが、奈良の小山さんまで調査の立ち会いに行っていると言う。事務所の黒田さんに車を取りに来て貰うことになって、待っていると、急に背骨が痛くなってくるような気がする、やばいと思って、タクシーで行こうとしたが、危ないと救急車を手配して下さる。 待つ間もなく、救急車が到着して、救急隊員に担ぎ出されて、泉尾病院へ搬送されて、そのまま心臓カテーテル室へ直行となる。 いきなり、ボーコーヘ排尿カテーテルを挿入されてしまう。アッという間もあらばこそ、そして良くわからないが、右腕から、心臓へカテーテルが挿入されていきなり手術が始まる。検査も何もなく、それだけ緊急なのだろう。麻酔の関係か手の動脈が引き攣れるような感覚が1〜2回あって、1回だけ、背骨がズキンとひどく痛みが走ったことを覚えている。心臓と背骨は関係があるんだ、神経が繋がって居るんだと納得しました。 先生が赤尾さん終わりましたよ。と告げられて塞いでいた目を開けて足元を見たらモニターに自分の心臓が動いているところが見えました、手術中の映像です。 その映像を見た瞬間、アッあそこが詰まってると、ひと目で分かりました。血管が細くなって血液が流れていないところが素人でも一瞬で分かりました。アァ自分は危うく死ぬところだったとこの時になって初めて心から納得しました。 今の今まで、危険だとか、死にかけだとか思っても居なかったのですからマンガです。 まんがの『北斗の拳』ならお前は既に死んでいると書かれる所です。危うく戯作者に『退場』と書かれてしまうところでした。悪運強く生き残って有り難いことだと感謝して世の中へ少しでもお返しが出来たらと思います。
2004年10月13日水曜日晴れ 手術の結果は経過良好で、ヤレヤレ一安心。 人間てホンマにアホなもので、自分が死にかけているのに何も知らんと平気で、ここのスーパーはなすびが10円安いなと考えて居るのだから滑稽を越して哀れになって来ます。 今は絶対安静でベットで起きることも禁止されています。背中が痛いとベッドに敷く板をコーナンへ買いに行くなどと馬鹿をやって平気でいたのですから無知から来るマンガ以上に面白い現象には苦笑いを禁じ得ません。
2004年10月14日木曜日 今日はベッドに起きあがって、ベッドの周辺を歩いて、心電図をとって、安全を期して動いてみる。 あしたは10bか20b歩いて見るらしい。テレビも新聞も見る気がしなかったが、どちらも少し見ようかなと手が出るようになった。 無塩食事は苦痛だ。ベッドの周囲を歩く。
2004年10月15日金曜日 ボーコーのカテーテルを抜いて呉れて、シビンになったが、シビンの始末をしに来てくれないので、少しイラつく、見ていると看護師さんは忙しいのと、動けない患者は、ボーコーカテーテルを入れてあるのでシビンの始末をする機会が無いようだ。身体がすーすー寒いので、パッチをはく。シャツを着ようと思ったが無線心電計が身体に張り付けてあるので、かぶるシャツは着られない。 100b歩行をやってトイレは免責かと思ったが、室内歩行のみで、トイレは不可と言い渡される。 午後先生が、説明に来られて、ツツミ先生の話を少しする。「背中が痛いと言って心電図をよくとりましたね、さすがツツミ先生だ」と言うような話があって、今日栄養科から減塩についての話に来られたことから、減塩をやったら、動脈硬化が治るのだろうかと聞いて見ると、「そんなことはない」と至極当然の答え。「元に戻ることはないが少しでも現状維持して、長く生を保つ必要があるのだから」と巧みな話で納得させられてしまう。減塩生活に移ることを覚悟する。 夜詰め所でパソコンの映像を見ながら、説明を受ける。冠動脈が一本途切れている画面を見ながらうまく助かった有り難さを噛みしめる。くびれた血管がバルーンやステントでうまく血液が流れている様子が良くわかる。科学技術の進歩、医療技術の進歩のお陰を満喫しながら今の日本に生きる幸福に頭が下がりました。 心筋梗塞の影響で心臓の筋肉が相当傷んでいるらしく、鼓動が無くて脈を打っていないらしい様子もわかる。もし筋肉が死んでしっまったら、どうなるのだろうと今頃になって心配になる。(この辺はアホは死ななきゃぁ治らないと言う典型)先生は追々動くようになる、日にちクスリだと安心させて下さった。部屋へ帰って横になって、うとうとしていたら何か急に不安になってナースコールをする。すぐに先生も(先生は当直だったらしい。)駆けつけてこられて心電図とって、「何もありません。不整脈は昼間からありましたよ。」と安心させられた。 隣の人の酸素吸入の音がボコボコ言うのを、夢うつつで聞いていると救急車で運ばれてきたとき、手術中、手術後に酸素吸入していた、水がボコボコ鳴る音が似ていて不安になったらしい。一件落着、お騒がせいたしました。その後は安心して一気に朝まで眠る。
2004年10月16日土曜日 今日は20b歩行らしい。トイレは解禁になるだろう。全国的に秋晴れの良い天気らしい。北海道は紅葉真っ盛りだし。上高地は穂高が冠雪と、中腹は紅葉、カッパ橋は緑と三段染色というのだそうだ。 ダイエーが再生機構にかかるとか、西武の堤義明氏が役員を全部辞めるとか、ライブドアと楽天とどちらが選ばれるのかヤカマシイ。 仙台は楽天、フォークスはライブドアと落ち着くのではあるまいか。(これはフォークスがソフトバンクに落ち着きました。)それとも途中でイヤ気がさして止めるかだろう。 ここで声を大にして伝えたいことがある。心筋梗塞が起こっていても、自覚がない場合ががあると言うことである。私は背骨が痛かったのだが、一般的に胸が苦しいとか、肩胛骨の裏が痛いと言われているが、どこが痛むか分からないし、必ず痛むとも限らないのではないか。 私の場合は、疲れやすかったと言うこと、何か違和感があったこと。風呂好きの私が何日間か風呂に入らなかったこと。など異常な事態が起こって居たのに本人は、全く気が付いていないと言う危険な状態で、10日あまり過ごしていたのだから油断は出来ない。 幸いなことに血液サラサラ薬を飲んでいたのが幸いしたのではないかと思います。2ヶ月ほど前に、犬歯の割れを抜いて出血が止まらず死にかけて、今度は血液サラサラ薬のせいで命拾い、したとしたら何が幸運か、わからないところです。塘先生が病室までのぞいて下さる。
2004年10月17日日曜日 人間万事塞翁が馬、何が不運で何が幸運か、誰にも分からない所です。不思議研究所のモリケンこと森田 健さんが人は、「万事幸運にしてしまう人が居る。」と言うのは当たりだ。感謝!感謝!感謝!で生きて行くのが楽しみで、ワクワクしながら、こんな有り難いことはない。50年前に実感した、「極楽て」死んでから行くとこやと思っていたのに、フト気が付いたら、喀血して喀血して死にかけて、腕も動かせず(動かすと喀血するから)寝返りも打たれへん状態で、大小便もまま為らず、今日死ぬか明日死ぬかの地獄のような修羅場なのに、今ここが極楽やと思って、その気づきがあってそれから、徐々に快復へ向かい始めたように思った。あれ以来久しぶりに極楽、極楽と安心した心境になりました。 空はあくまでも青く、雲はあくまでも白く。お粥腹は腹が減って何か食べたいが、売店は日曜日は休みだという。 腹が減って食べるものがない、こんな感覚殆ど忘れていたが、腹が減ることの有り難さを身にしみて満喫しました。それにしても腹が減ると、11時になった、後1時間で昼飯にありつけると、思うと意味もなく廊下に出てみる。配膳車が来るかと気にしていると、大橋看護師さんが通りかかって「どうしました。」と相手になってくれる。そこへ梅田先生が通りかかって、「昨日ツツミ先生が来はったらしいですな、ちょっと居らなくて失礼しました。」と気を使っていただく。どこまでも有り難い世の中だ。 午後シャワーのテストをやる。
2004年10月18日月曜日 今日は入浴のテストをやる。血圧と心電図をとってから入浴する。帰ってからもう1度心電図と血圧の測定。 心臓病の本を買って来る。
2004年10月19日火曜日 台風がまた来たらしい。 風呂行きの桶を持ってきてくれる。
2004年10月20日水曜日 先生が来て、アイソトープの検査結果で、思ったよりウンと軽いと、ニッコリ 来週か、再来週にもう一度検査をやるという。それで退院と思われる。今週中に検査出来たらと贅沢な事を思う。 サンケイ新聞に、薬剤溶出性ステントの話が出ている。1年後の再発率が4.9%に激減と書いてある。従来は10数%〜30%有ったと言う再狭窄が、4.9%に減るという。 ステンレスなどを素材とするステントと呼ばれるコイル状又は筒状の器具だと解説されている。新しくより良いものが作られていく。日進月歩いや時進分歩かも知れん。大勢の人が寝食を忘れて研究しているのだろう。有り難いことだ。 午後血圧測定に来て、えらい低いなと言われる。上が98だそうだ。塩気抜きの食事が効いて居るのかも知れぬ。
2004年10月21日木曜日
2004年10月22日金曜日 朝から風呂に入ってゴキゲン。朝寝・朝湯と来れば朝酒になるのだが一滴も呑めない私には酒は要らない。 エコーの検査を2階で受ける。心筋梗塞の影響は未だ残っているが順調に回復しつつあるとのこと。 土、日は外泊してよろしいと許可が出る。来週火曜日にカテーテル検査を行うとのこと。その結果で退院と決定。
2004年10月23日土曜日 11時過ぎ外泊に出る。息子の運転で病院を出る。大名になったような感じ。大阪ドーム横のデニーズで昼食。キノコのハンバーグを食す。夕方テレビを見ていると新潟で地震あり。震度6強と、かなりの地震。連続して強い余震。今年はやけに台風も多くて、あげくの果てに地震とは泣きっ面に蜂、現象。 体調は順調、風呂に入って眠る。朝までよく眠れた。 株はだいぶ下がったが、未だ買いの情報が出ない。もう少し下がるのだろうか。
2004年10月24日日曜日 テレビは地震のことばかり、死者もたくさん出た。 大正区の地図を見たら、この病院の当たりは、昔の小林町と言って材木の町だったところだ。建築屋の親父が材木を買いに小林町へ行くと言っていた記憶がある。もっと南へ行けば南港の方に平林町と言うところがある。今材木問屋の多いところだ。 私は未だに狭心症と心筋梗塞の区別がワカラン。冠動脈が狭くなって起こるのが狭心症で、冠動脈が詰まって血液の流れが止まったのが心筋梗塞と言うのは分かっているのだが、自分の症状が心筋梗塞と言われても苦しくなかった事や狭心症ではなかったのかと疑問が湧く。どっちゃにしても死にかけとったんやから、そんなことどうでもよいやおまへんか。と言われそうだから止めます。 ただ何となく奇妙な気がする。脈を取ってみると、何となく弱々しいように思う。気のせいか。 4時すぎ帰院する。
2004年10月25日月曜日 カテーテルの検査、水曜日にしますと梅田先生。火曜日と思っていたのにガッカリ。玄関まで行って。TELする。今週中 に退院できるでしょうと先生。
2004年10月26日火曜日 向かいの松本さんは、10時からカテーテルの検査で、11時前に帰ってきた。元気だ。明日は私がやることになる。3時間は動かれんらしい。 朝から雨が降る。新潟の被災地も雨で大変だ寒さもやってくるし。山古志村では冬は4bの積雪があるという。 西武ライオンズが優勝。中日は残念と言う結果になった。 2004年10月27日水曜日 今日はカテーテル検査の日。少々落ち着かない。11時過ぎの予定(3人目)とか言うが、少し押してきて居るみたいで、遅れていると連絡あり。 術後は腕が動かされないので日記の記入は不可能。29日退院 入院日記終了。
成功したダイエット73sから65sへ
家内が膝の痛みに苦しんで体重を減らすことになりました。73s(本人自主申告)を減らすをらすことになりましたが、条件を次のように設定しました。 1.
ダイエットが苦しみならその方法は駄目として、楽で続けられること。 2. リバウンドの無いこと。 3.
月3000円程度の費用と言うのが条件です。 まづ糖尿教室で勉強することにしました。調べてみると糖尿教室は大きな官公立の病院でやっていることが分かりました。電話で聞いてみると、そこの患者でないと駄目らしいので一番便利の良い比較的すいている病院をねらって患者になることにしました。糖尿病と言われたと言うて病院へ行くのです。それは曽我部外科医院で「このままやったら必ず糖尿になるで」と言われたのですから、糖尿になりかけてるのです。血糖値も高いのですからまんざら嘘ではありません。 そして先生に看て貰って、その足で地下の教室を訪ねました。かくて晴れて?生徒になって夫婦で出席する事になったのですが、初めは1800キロカロリーのメニューです。ご飯は150cで、おかずはいろいろ献立があります。そして3ヶ月ほど努力しましたが、効き目がありません。1600キロカロリーに目標を変えましたがなかなか体重は減りません。それでも減カロリーの知識は付いてきました。本人も食事に慣れてきて夜中に腹が減って寝られんと言うことも無くなって来ました。 糖尿教室は減量教室とは違うのだからそれもやむを得ません。どうしょうと考えているときにNHKが体重計で測るだけで体重が減ると言う耳寄りな話を放送しました。50cまで計れる体重計で朝晩測定してグラフに書き込んで行くだけでよいのです。これなら楽勝やと、インターネットで調べて体重計を注文しました。我が家には、体重計が3個もあるのにです。 2万円弱です。そしてグラフもインターネットでダウンロードして、カラーのグラフ用紙が出来ました。ちゃんといいわけ欄もあります。そして殆ど同時に寒天ダイエットの放送があるある大辞典だったかでありました。これだとばかりに鶴橋の卸売り市場に行って乾物屋で粉寒天を買ってきました。味付けに昆布茶を入れるのでそれも買いました。 スティックの粉寒天に昆布茶を混ぜて熱湯を注いでかきまぜるだけです。熱いので氷を3〜4個入れて人肌くらいにして、すすり込みます。決してうまいことはありませんが、飲みにくいと言うことはありません。これを食前に飲んでそれから食事です。食前20分と書いてありますが、とんちゃくしません。食事の直前に呑みます。 便通が良くなって、じりじりと体重が減っていきました。もちろん減食もしました。 糖尿教室の勉強が役に立ちました。体重計の表示も気になります。グラフで減っていくのが喜びです。そんなこんなで少しづつ少しづつ体重が減って63sまでやせました。 その時に、義弟が肺ガンで大阪市立総合医療センターで殺されて、葬儀、49日の法要と気の休まる暇もなく、すっかり減量どころでなくなって油断をしました。少し体重が増えまして66.5sになりました。気を付けていないとリバウンドするのです。法事も済んで落ち着きましたのでまたやり直しです。少しずつグラフは下がっています。55sを目標に置いています。 しかしあまりしゃかりきにやるつもりはありません。多少増えたりしながら、楽しみながら減量を続けるつもりです。 主婦の友社から出ている『健康』と言う雑誌から、インタービューに来るという連絡があり、女性記者1名とカメラマン1名と二人で来て、手際よくうまくまとめて行きました。記者はフリーライターが横浜から、カメラマンは大阪の人でした。 私がさすがだと思ったのは、カメラマンです。家の中で話しながら,2台のカメラで3〜4本、外で私と家内と二人並んで撮って貰いましたが、これも2台のカメラで2〜3本とって、はじめは堅くなっていたのを2本も3本も取られると自然体になってくるのが自分でも分かります。矢張りプロは違うなと言うのが実感です。 記事は半分PRなので、りんご寒天ダイエットになって居ましたが、あれは記事の創作で、リンゴ寒天などという手の掛かるものは初めから視野に入っておりません。記事を見て、リンゴ寒天やってみたけどまずくて駄目だという人が何人もありましたので、うちのやり方を報告申し上げます。 粉寒天は小売りで買うとスティックになっていて高くつきます。試しにやるときはスティックを買って試みて、本格的にやれるとなったら1sの卸用の粉を買って下さい。4000円ほどです。 先日NHKで粉寒天ダイエットを放送しました。買い手が殺到して品切れだそうです。しばらくお預けです。 私の方針で1、楽であること。 2、月に3000円くらい 3、害がないこと 4、続けられること などを条件にして来ましたので寒天ダイエットはこの条件に合う少ないダイエット方法だと思います。寒天屋の回し者ではありませんが、推奨いたします。 私も最近粉寒天を飲み始めました。テレビで粉寒天に酸を混ぜると固まらなくなってその固まらない寒天は腸で吸収されて血管の中に入りガンの組織に吸収されると、ガン細胞が死滅すると言うのです。まだ動物実験の段階と言って居たので、試しにはじめたのです。前立腺ガンを抱える身としては見過ごすわけには行かなかったのです。前立腺ガンの腫瘍マーカーは1.0から1.5くらいの間でうろうろしております。4以下が正常値なので、安心して居ります。これもついでに良くなれば理想的かなと思います。運動不足とクッキーのおやつで体重が増えて(と言っても57sになったのですが、久しく53sだったので体重オーバーなのです。55s位にすぐに落ち着くと思います。塘先生に間食禁止を言い渡されてちょっとつらい義明です。言いつけはあまり守っておりませんが少しは間食が減りましたかな。 ガンの薬を貰っている横内先生に牛肉禁止を固く言い渡されてつらいのですが、出来るだけは守るようにしております。これも厳守するつもりは初めから持っておりません。大阪ではカレー食べても牛肉は入っているし、其れがうまいんやから横内先生早く牛肉を解禁にして下さい。 私は粉末レモネードを粉寒天に混ぜて飲み出しましたが、レモネードはこなをスプーン4〜5杯入れると書いてあります。これは砂糖がすぎると思いますので、薬局でクエン酸を買って来ました。これを耳掻きに1杯入れてレモネードのもとを1杯入れて粉寒天は添付のスプーンすりきり2杯を良く混ぜ合わせます。そして熱湯を注いで良くかき混ぜるのです。このままだと熱いから氷を3個4個入れて冷めたらすすり込みます。 実行を考えて居られる方のためにレシピを書いて置きます。 食前にコーヒーカップに粉寒天を添付のスプーンで擦り切れ二杯入れます。2杯で4cです。 昆布茶を添付のスプーンに山盛り一杯入れてかき混ぜる。次に熱湯を注ぎます。素早く良くかき混ぜて出来上がりです。熱いので氷を三個か四個入れてかき混ぜて適当な温度になったら静かにすすります。20分後に食事となるのですが、毎日は実行出来ません。寒天をすすり終わったら、すぐに食事開始で、20分待たずに食べ始めます。 私は53sから57sになって心筋梗塞になったので、55sまでダイエットしようと粉寒天を始めました。テレビで、粉寒天と酸性物質と混ぜると固まらないが、固まらない寒天は大腸から吸収されて血液の中に入り、ガン細胞に入り込み、ガン細胞をやっつけるというのです。まだ動物実験の段階ですと断っていましたが、前立腺ガン患者の私は見過ごすわけには行きません。そんなにうまく行くとも思えませんが何はともあれやってみるのに逡巡することはありません。 酸性のものとして、クエン酸を買ってきました。クエン酸を耳掻き1杯入れます。味付けに粉末のレモネードの素を茶さじ山盛り1杯入れます。粉寒天は添付の匙ですり切り2杯をコーヒーカップに入れて、それを良くかき混ぜて、熱湯を注ぎます。手早くかき混ぜて熱ければ、氷を入れて手早くかき混ぜてすすります。 まだ始めたばかりで成果の程は数カ月経ってからご報告致します。乞うご期待。 信州の寒天屋さんを紹介しておきます。 391-0013長野県茅野市宮川2623番地 松本寒天産業株式会社 TEL 0266-72-4121
FAX 0266-72-4122
粉末寒天 1s 袋入り 4200円 税込み 5000円以上注文の時は送料無料です。私のとこでは1回に2個注文して居ます。 うまいとは言えませんが、決して呑みにくいことはありません。試してみて下さい。 皆様の成功を祈っております。 2005年4月5日 桜が少し咲き出しました。 赤尾義明拝 雑誌に載ったグラビヤ2ページのカラーコピーを欲しい人に送ります。夫婦が楽しそうに写って居ます。なにせ雑誌に載ったと有頂天やから、見てやって下さい。
3歳年下の義弟が肺ガンで死んだ
いつも弥次喜多のようにつるんで旅行していた義弟が肺ガンになってアッという間に死んでしまった。 昨年8月に風邪が治らんと言うてレントゲンをかけた時に写って居なかった肺ガンが10月にレントゲンをかけると2aくらいのガンが写っている。そんなに早く進行するものなのだろうか。8月のレントゲン写真は少し写りが良くないが、ガンが写ってないのは素人でも分かる。それが3ヶ月でこんな大きいガンになるとは納得がいかない。しかし聞いてみると、ガンの場合はそんなこともあり得ると知り合いの先生方は、みんなおっしゃる。 上皮扁平ガンだそうだ。東大阪市民病院の主治医は、うちでは手術できないので、大阪でトップの先生の居られる病院を紹介するので、そちらへ行って欲しい。どちらも優秀な外科医で甲乙付けがたいそうだ。国立の成人病センターと大阪市立の総合医療センターだという。国立は建物が古いので大阪市都島の新しい方にする。少し遠いのだがそんなことを言うてる場合ではない。東大阪市民病院の女の主治医は、切れるかどうか分からないと言う。そこで「先生のお父さんやったらどうしはります?」と聞いてみるとしばらく考えて「どうするか、迷いますね」と切るとも切らぬとも曖昧な返事だ。歳を考え病状を考えて微妙なところらしい。 「人間ガンで死ぬことはない。」と言うのが最近の私のモットーだから、「よし、治してやろう」と横内先生へ写真を送る。薬が来てせんじ薬がとても苦いと義弟は言う。良薬口に苦しじゃと苦情は却下。 都島の病院では、先生が「これなら切れる、よっしゃわしが切ったる。」と力強く断言される。12日に入院と決まり義弟は入院した。所がマンの悪いことに私が心筋梗塞を起こして12日に同時入院となってしまった。病院は別々だ。病気ベテランの入院コンサルタント役が入院したのが運の尽きと言うか、抗ガン剤、放射線治療と病院の言うままにキッチリ優等生患者として受けたらしいのである。抗ガン剤、放射線治療の気に入らない私が居たなら止めたはずなのに、治したい一心でまともに治療を受けて左肺切除術を受けたらしい。 私はかなり簡単に(簡単ではなく難しいのに先生の腕がよいからです。)治って退院したのに、義弟は残した左の上葉の切り口が塞がらず、穴があいて婁になって空気が出入りしていると言う。血液やリンパ液の排出口のビニチューブが外せずに少し排気しているようだ。息をするとパイプの中の空気が激しく動く、これなら肺の婁の穴から空気が盛んに出入りして塞がる筈がない。どうするのか気が気でないが医者は何も手を打たない。そうこうする内に、排液チューブの埋め込み口の内部で化膿が始まった。そうだろう体力が弱って居るのに何時までも肺の内部と空気が出入りしているのを放って置けば、ばい菌がはいるのも当たり前だ。 そこでパイプを抜いて様子を見ることになったが右の肺炎が進行してだんだん息が苦しくなって、酸素吸入が離せなくなった。 かくて心臓も弱り体力も落ちて行き、最後は今晩が危ないと言うて居たのに4時頃急にあっけなく逝ってしまった。病院に駆けつけた私(親族中私一人が呼ばれただけ)は、一目見て危篤状態だと感じたが、先生と看護師数名がどやどやと入ってきて、処置しますから部屋を出て下さいと。部屋から追い出されてしまった。これはイカンと親類中に電話を架けに行ってる間に死んでしまって、死に目に会えず仕舞いだった。息子も娘もずっと時間がたってから駆けつけてきたが後の祭りだった。 肺切後、右の肺に肺炎を起こして、それをステロイドで治療すると言う。私は抗生物質で攻めないでなぜステロイドでやるのか解せなかったのだが、後で間質性肺炎だと死んでから聴いた。体が弱っているのにステロイドを使うなんて、そんなことをするのは体に良くないから反対だと言って早く退院しろと言っても言うことを聞かない。その内にCTスキャンで小脳に3_のガンが見つかったと言ってガンマナイフ治療をするという。わしなら絶対に今しないと言うて聞かせてもよう断らん。横内先生のせんじ薬を家で煎じてきて病室で飲めと言うても、さらさらそんな気がないらしい。 死因は間質性肺炎だと言う。間質性肺炎は放射能が原因だと書いてある。 医者はガンを治してやろうとして一生懸命にやってくれた。そしてガンは全部取ってくれた。しかし命はなかった。 そこで私は『医者に殺された。』と言うのです。小脳に出来た3_の影はガンだと断定出来るのか。その根拠は、たとえガンであっても今取る必要は何処まであるのか。何ヶ月か後で本人の体力が回復してからでも良かった。ぼやいても後の祭り。死んだものは帰ってこない。先生は治してやろうと一生懸命にやってくれた。ガンは綺麗に取れた。しかし、本人が死んでしまっては何にもならない。身体は丈夫であった。私などと違い頑丈で体力もあった。其れが逆に命取りになってしまった。 ガンで闘病して居られる人が何人か居られるが、自戒して欲しい。私の話が信用できなくて、横内医院を受診されていない人は特に時候の変わり目には気を付けて風邪など引かぬように用心して下さい。 ガンに対する治療の違いは、現代医学がガンを目の敵にして、悪者を徹底的に殺す事に徹する所と、横内医院流ではガンをおとなしくさせて増殖と転移を押さえ体力の増強に努め平常の生活を安泰にして生活の質を高めるところにあると思います。抗ガン剤で頭の毛が抜け落ちたり、放射線の副作用で本人は気息奄々と言うことでは駄目で、ご飯がおいしく、元気で毎日が送れることの有難みを噛みしめて欲しいのです。 ガンはゲリラのようなもので皆殺しを計ると、潜行して飛んでもない所から現れたり急所を襲われたりするのです。ゲリラに対しては、社会を健全にして、ゲリラの付け入る隙を見せないことが大切です。ガンに対しては体力を付けて食事がウマイ、生活が明るい。ソンナ生活が治癒に結びついていくのです。明るく生活出来る事がどれだけ有り難いか体験してみて下さい。 『人生、いきちょるだけで丸儲け』とテレビでやっとります。義弟は惜しいことに私の言うことを聴かずに、医者の言うことを聴いて死んでしまいました。ひどく寂しい春になりました。 |