日記 -Diary-

by 赤尾義明

 2月13日    今日は2月です。

*月*日

タイトル

       今日は二月二日です。

 今日は二月の二日です。本当に日にちの経つのは早いもので気がつくと呆然とします。年が明けたと思ったら、早くも2月です。

 何の進歩もせずに、唯日時の過ぎ行く儘に流されて、流されて生きて行くのでしょう。情けないと思うのですが、歳を取るという事はこう言う事なんでしょう。毎日を何となく暮して、テレビを見て、新聞を見て、情けない話です。 自分のブログに文章を書き込むことが出来なくなって、いろいろ探っているのですがどうもいい方法が判りません。もう一年以上も掛かっているのに判らないのですから自分でも呆れています。 それも、費用も掛かってもと思っているのに、それでも情けない事に未だに解決出来ないで困っているのです。誰か助けて呉れないかと思って居るのですが!!

 昭和10年台の流行歌や軍歌を聴いていると、何も忘れて、一番幸福な時を生きているのですから駄目です。 暁に祈るです。あぁ堂々の輸送船 遥かに拝む宮城の空に誓った此の決意!元気が出ます。赤い忠義の血がにじむ、こうして特攻に行った同級生は勉強が出来て、体格も良くて、運動も出来て正義感の強い男でした。あんな奴が死んで、誰が特攻なんかに行くかと内心思って居た非国民な男は生きながらえて85歳いやもう直ぐ86歳を迎えようとしています。そして何も出来ないと嘆いているのです。世のなかは平等で無い証拠でしょう。

 夜が冷たい心が寒い、渡り鳥かよおいらの旅は、風のまにまに吹きさらし、風が変わればおいらも変わる!仁義すごろく丁半かけて渡るやくざの頼りなさ!旅傘道中です。亭主もつなら堅気をおもち、兎角やくざは苦労の種よ恋も人情も旅の空!! 華も嵐も踏み越えて行くが男の生きる道、旅の夜風です。こうして歌を聴いていると何時間でも居られるのです。何も出来ない筈です。 待てばくるくる、愛染かつらやがて芽を吹く春が来る!鶴田浩二の同期の桜です。朗読は涙なしでは聞いて居れません。こうして死んでいった奴を海兵や陸士の連中は消耗品だと言って笑っていたと言うのですから、許せません!本当に日本国民は靖国神社に参って欲しいのです。総理大臣は真っ先にお参りするべきなのです。何かよその国からごちゃごちゃ言われて参らないというのは駄目です。国を想い1国を守るためにと思って死んでいった奴らのことをもっともっと感謝してやって欲しいのです。何か国賊の手先のように言われては余りにも可哀想過ぎると思うのです。 日本の今の姿を見たら特攻に行った連中怒りよるで!!ほんまに!情けない言うたらこれ以上のことあれへんがな!! と、もと非国民は怒っているのですが誰も聞いてくれへん。情けない話やがこれが現実です。と死に掛けの老人が独り言言うとるねん。今日は元田家と昼飯食いに行く事に成っております。ご馳走食わんならんと思っても至って小食で幾らもたべられへん。それでも行って来ました。清水谷高校の真向かいにあるのです。ホームページに書き込みが出来ないので、如何したら良いか高校に聴きに行こうかなと思っているのだが、高校に縁もゆかりも無いものが入れないと言われて如何しょうかと迷って居まっす。誰か良い方法を教えてくれないでしょうか。

 今日新聞折込に玉造駅前のパソコン教室の広告が入っていて、ホームページOKと出ていたので、早速電話を架けてみたら、無料説明会をしますと言う事で、早速行って来て要領を聴いて来た。どうやら行けるらしい。うちのホームページを見て説明したら大体理解できたようで、来週にもTELしてきてくれると言う。

 どうやらこれでホームページに書き込むことが出来るようだ。文章を作っても書き込めず、プリントアウトしてメール便で発送して来たが、此の手間が省ける。そして経費の節約にもなるが果たしてどれだけの人が読んでくれるかと言う事だ。 人に読んで貰うとなると良い文章を書かねば成らないし、これが大変かもしれん!えらいこっちゃホームページに書き込めんと言っていたら良かったのにと後悔先に立たずということか?
 誰も読んでくれなくても自分が納得して書いて行けば良いと思うので気を楽にして、余りシャっチョコバラズニやって行く事にしょうと思う。もともとそんな気持ちで来たのだから、今更何も慌てる必要など無い。
 と格好だけ付けても、元が割れているのだから、仕方が無い。無い袖は振れんのです。もうじき3月が来ます。3月9日は私が86歳になるのです。目出度くもあり目出度くも無しと言うのが本心です。本当に今まで良く生きて来れたものだと自分でも感心しております。死にそうに成ったことは数知れずです。一番大変だったのは肺結核で、両方の肺に空洞が開いていてとても治るとは思えませんでした。それが、ヒドラジッドと言う薬が出来て、空洞は断層撮影したらはっきり写って居たのが、3ヶ月5ヶ月と経つうちに小さくなって、段々消えていって、半年程で消えてしまった。
 こうして私は生還したのです。文字通りの生還でした。かくして私は今日生きて居るのです。この薬の開発が半年遅れていたら私は生きていなかったかもしれません。正に間一髪と言う所でした。
 心筋梗塞で知らずに動き回っていた時も、塘先生の心電図を撮ると言う決断が無かったら死んでいたかも知れません。
 欠けた歯が3分の1程抜けた時、血が止まらずに、朝起きて車で曽我部医院に行こうとして運転が出来ないで、滋樹に運転を頼んだ時、医院に着いて車から降りる時、待合室で待っている時ひどくしんどくて、倒れそうやったので、点滴室へ看護婦さんに両腕を取られて病室に行き、新人の看護婦さんが血圧を測って上が50です。下は判りませ4んと怒鳴るように叫んだのを聴いて周りの看護婦さんが一斉に駆け出して、点滴!注射!と激しく動き回った時に、あぁ俺は今死に掛けたんやと納得しました。
 悪運強く死線を乗り越えて、来ましたがそのひょろひょろの男が85歳も生きて動き回るのですから、本当に健康と寿命は別だと言う事がしみじみと身に沁みて判るのです。どうせ一度はあの世とやらへ、堕ちて流れてゆく身じゃないか!と歌いたくなるのです。
 本当に人生は何処でどうなるのか誰にも判りません。だから面白いのでしょう。私より丈夫で健康な、達者な人が早く死んで居ます。特攻に行ったやつなんか本当に惜しいと思います。

        2013年2月7日(木曜日)
                     赤尾天螺彦拝                

 
サブリンク-1
サブリンク-2
サブリンク-3
2005 赤尾滋樹公認会計士事務所 All rights reserved.