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  経営者ニュース   No.47 2005/1/10

−目  次−

ご挨拶
77歳になってCDの制作
侍ニッポン裏話
終の棲家 -2-


  ご挨拶

  今日は1月10日です。松の内と言うことで、あけましておめでとう御座います。旧年中は色々ありがとう御座いました。本年もよろしくお願い申し上げます。
経営者ニュースがなかなか出来なくて、とうとう年2回の発行になってしまいました。

年は取りたくないもので物忘れがどんどん進行します。昨日までやりかけていたことを今日は忘れているのです。

頼まれていた買い物を忘れるなんて日常茶飯事で2つ頼まれると一つは出来ても二つ目は先ず忘れることになります。

  マイベストCDを作っています。楽しくて毎日毎日御飯を食べる間も惜しかったり、ションベン行く間もなかったり、思うようにいかなくて苛ついたり、日々が夢のように過ぎていきます。BGMに使うと。これがもの凄い効き目がありました。

  これほど心身に効くとは思いも寄りませんでした。心身の一番奥深くに効くらしく、夜BGMとして、かけて寝ると熟睡もエエトコで、爆睡します。昼間はボリュウムを上げてガンガン鳴らしています。家のもはえらい迷惑なことで、これでまた寿命が延びたりして!『これが一番迷惑や』『そんなこと言うトンノどいつや!』

  最後になりましたが皆様のご健康を心から祈り上げます。死にかけて健康の有り難さ、大切さが無茶苦茶わかります。『人間生きてるだけで丸儲け。』と朝の連ドラで言うて居ます。

 
77歳になってCDの制作

 先日すっかりご無沙汰の藤井君のところへ顔を出した。窓の看板が消えているので気になっていたのである。大分前から消えたままで、初めは汚れたか薄くなったので書き直すのだろう位に思っていたのだが、前をあまり通らなくなって忘れていたのだが、先日通ったときには久しぶりに窓ガラスを見て驚いた.まだ書き直して無いのだ。その時は先を急いでいたので素通りして、後日時間が出来たので寄ってみた。運良く本人が居て元気にパソコンをやって居た。
 窓の看板の事を言うと、こともなげに建物が宣伝禁止か何かで窓に字を書くことが禁止らしい。それならそれでよいのだが、何か官僚の規制に屈してるようで腑に落ちない。

 規制緩和が合い言葉になっているのに窮屈なことで私なら耐えられない、恐らく喧嘩になっていると思う。大人げないと思いながらも引き下がる事はあるまい。誇大広告は駄目だが正常な告知は必要であり、義務でもあるだろう。

 まあ友達が元気にしていたら結構なことで、すっかり安心して帰ってきた。
パソコンで何をしているのかと聞いてみたら、音をミニディスクに落としているのだと言う。レコードやカセットなどいろいろな音源からミニディスクに統一するらしい。そのために一部屋借りているとか本格的だ。私はすっかり感心して帰ってきました。ミニディスクが一番適していると言うのだが、「私はCDにしているので、遅れとるのかな」と不安になりました。私は写真が1万枚位あるので、これをどうするかが大問題だと思って居たのですが彼はレコード・カセット・LPレコード等整理が大問題だと言うのですが、同じような悩みがあるのだとなにかホットしました。

 閑話休題、車をFitに乗り換えて驚いたことに、今度の車にはラジオとCDしか付いていないのだ。車の価格の問題もあるのでしょうがどうも時代はカセットの時代では無くなったらしいのです。音源については、78回転のSPレコードを初めとして45回転のドーナッツ盤、33回転のLPレコードそして1インチのオープンテープ、そしてカセット次にマイクロカセットと進んで今はCDかMDになって来ました。

 DVDまで来ているが、音だけならCDで十分なのでDVDは、これからは映像が主体で音だけと言うのは流行らなくなるんでしょうか。

 車上荒らしにあってCDを盗まれたのがCD制作の動機なのですが数ヶ月間苦闘する事になるのです。CDしか聞けないのならと、MyベストCDを作ることにしたのですが先ず第一の難関はレコードやカセットはアナログ録音なのでCDに落とすにはデジタルに変換しなければならない。レコードは演奏装置が必要になる。昔のプレーヤーやアンプやスピーカー(懐かしい言葉を久しぶりに聴く!)を取りだしてほこりを払って、レコードをと思ったがレコードがその辺にない。きれいにどこかへ片づけられていてすったもんだの末、やっと揃ったのが数日後レコードを載せてかけてみるが音が出ないプレーヤー・アンプ・スピーカーの結線をチェックしても分からない。あれやこれやで1ヶ月は瞬く間に経過してそれでも電気屋に見て貰って故障個所を治して何とか音が出るようになった。

  そしてそれからが大変、パソコンの横にコンポーネントを設置してアナログをデジタルに変換する機械を3万弱で買ってきて繋いでみる。なかなか言うことを聞かない、それでも何とか動かせたが、レコードから入れた音はLPの場合10数曲が一つのファイルになっている、それを1曲1曲に切り分ける必要がある。それには切り分けるソフトが必要になる。WinCDRなるソフトを8千円位で買ってきてやりだしたが、切り分けた曲を並べて書き込むソフトも要る。これは幸い、いろいろなソフトがパソコンに、おまけで付いているし。無料でインターネットから取り込む事もできる。それやこれやで数ヶ月はあっという間に経過して新年になってしまった。その間、血液サラサラ薬を飲んでいて歯の治療で出血が止まらずに死かけたり。狭心症か心筋梗塞か、で救急車で入院したり、主婦の友社の雑誌『健康』にグラビァに夫婦で大きく載せられたりと私なりに波瀾万丈?の生活でした。

 それでもようやく出来たので聴いてみます。音質は贅沢を言わないことにして曲目の選定に色々思惑があります。昔は一曲当たれば、その曲が何年にも渉って聞けたものです。子供でも口ずさんでいました。そのころに聴いたものは、右脳で聴いていたのでしょう。二十歳代になると当たり前ですが左脳で聴いているのです。だから子供の時に聴いた曲と大人になってから聞いた曲では体の反応が違うのです。

 曲目を見てみましょう。まず最初は古賀政男の「人生の並木道」からです。古賀政男はあの曲は、親が北九州から満州へ落ちていった時に味わった人生の苦しみ、つらさ、悲しみ、別離などの悲哀を詠ったもので自分にとって一番想い出が深い。と語っています。

 名曲中の名曲だと思います。次は私が一七歳の頃、生まれて初めて自分で買ったレコードが田端の「別れ船」で今までに一番たくさんの回数聞いた曲です。当時は珍しいエレキギターの伴奏が入っています。戦後のエレキのテケテケの走りです。曲は今聞くと立派な反戦歌だと思います。別れ船が反戦歌だとは誰も言っていないのですが、私には立派な反戦歌だと思います。戦時中は禁止になっていたのも当然だと思います。このレコードは芯がボール紙で、その両面にエボナイトを塗ってレコードにしたもので、何年か保存している内にエボナイトが反って割れてしまいました。このときの驚きと落胆は非常なものでした。

この想い出の詰まった曲が二曲目です。それもこだわりがあって、この曲はその当時のレコードの音なのです。SPレコードのモノで針音が入っているし録音は良くないのですが、後で録音したモノはエレキギター(その頃は電気ギターと言うていました。)が最初のモノと違って来るのです。今日来た、CDの広告には軍歌・戦時中の歌という分類の中に「別れ船」が入っているのですから、反戦歌の資格ありと思うのですが皆さんはどう思われますか。もし意見が聞けたら幸甚です。

 次は高峰三枝子の湖畔の宿です。十五年くらい前ですが、新聞の広告に高峰三枝子のディナーショーが五万円だと出ていたのです。なんと高いのでしょう。驚きましたが少し心が動きました。それでも五万円はないだろうと言うのが私の感想でした。しかし行きたいと言う気持ちがどこかに有ったのでしょう。後日やはり気になって探してみましたが分からずじまいでした。一月ほどしてから思い出して「矢張り一度行ってみよう、近くで『湖畔の宿』が聞けたら五万円も惜しくはないと思い返しました。今度大阪に来たら是非とも出かけよう」と決心したのですが、間もなく高峰三枝子の訃報が報じられたのです。だからこれも色々聴いて一番ぴったり来る録音を採りました。

 二〇年くらい前にNHKがアンケートしたら、「青い山脈」が一番になったそうです。戦後石坂洋次郎の「若い人」を映画化して大ヒットになりました。ヒロインは江波杏子と言う名前です。江波杏子役をやった女優は江波杏子と言う芸名を貰いました。明るくて素敵な曲です。小説「若い人」は何回も繰り返し読みました。ミッション系の学校でリベラルな校風に驚きと羨望を感じました。我が私立「日新商業」も自由だったと今思えば思います。配属将校などはあまり威張っていなかったように思います。配属将校ではなかったが平准尉などは、民間人とあまり変わりがなかったと記憶しています。

 ブルースの女王淡谷のり子は「別れのブルース」で大ヒットしました。戦地の兵隊は慰問に来た淡谷のり子に別れのブルースをせがみました。憲兵が禁止と言うているのに、希望したのです。また淡谷ももんぺなど履かず、ドレスで歌いました。この曲も反戦歌の資格ありです。

 田端、いや「端やん」が好きなら大利根月夜でしょう。私は酒は呑めませんが、平手神酒はフアンです。一杯呑んだら「大利根月夜」を歌い出す徴収の係長が税務署に居ましたが、故郷の舞鶴に帰って死にました。

 マタタビモノなら「赤城の子守歌」を外せません。国定忠治の子分、板割浅太郎が兄弟を討ってその子供(甥ッ子です)をあやす情景です。

 「麦と兵隊」は火野葦平の小説の映画化したモノです。徐州と言う支那の奥地にあるところへ歩いて攻めて行ったのです。行軍と言います。どれだけ日本軍は行軍したのでしょう。佐渡情話のかえ文句が出だしです。

 「旅姿三人男」はご存じ清水次郎長の子分大政、小政、森の石松の三人です。説明の必要なしでしょう。妻恋道中の惚れていながら惚れないそぶりと子供が歌っていました。「名月赤城山」は忠治が落ちぶれて、「言われまいぞえ、やくざの果てと、悟る草鞋に散る落ち葉」と悲痛です。

 「侍ニッポン」は主人公の新納はニイロと読むのです。それが録音の時に徳山環は古賀政男にシンノウと読むのかと確認したそうなのです。ところが西條八十がそうだと返事したので徳山はシンノウと発音して録音が終わったのですが、後でニイロだと判明して一悶着があり、当時の録音技術ではオーケストラから全員集まらないとどうにもならず、レコード会社は平身低頭あやまって済ませたらしいのです。鹿児島ではニイロという有名な家老が居て、みんな新納はニイロと読むことを知って居るらしいのです。この辺のいきさつはインターネットで調べると面白いのですが、徳山 環(トクヤマタマキ)は声楽家でクラシックの人です。

 「旅笠道中」は「夜が冷たい心が寒い」と子供のくせに歌ったものです。誰でもヤクザに惹かれるモノがあるらしく、知らずに今でも口ずさんでいることがあります。

 元気を出す必要もあるので、勇ましい軍歌を入れてみました。「出征兵士を送る歌」誰も一番歌って貰いたくなかった歌でしょう。今となれば懐メロに入れて良いと思います。

 「東京の屋根の下」何にもなくとも良い口笛吹いて行く、この明るさが、若さが有り難いのです。

 「加藤隼戦闘隊歌」映画を見ました。ハヤブサは海軍の零戦と並んで陸軍の花形戦闘機でした。隼に乗りたい。ゼロ戦に乗りたいと軍を志願した若者も多かったのでしょう。

 戦地では死闘を繰り返しているのに芸者も居たのです。お蔦主税の話は大分前のことですが、それを懐かしむ気持ちも有ったのでしょう。

 同級生で特攻に行った奴が居るのです。たぶん行ったのだろうと思うのですが確証はありません。国を護るために死ぬのです。犬死に、しないで下さい。と悲痛な声を残して死んでいった奴に今の国民はどう答えるのですか。靖国神社に総理が詣ってどこが悪いのでしょうか。

 別れ船があれば「帰り船」です。戦後の名作です。次に明るく「新雪」と行きましょう。若い人生に幸あれかしと、祈る瞼にわく涙。

 最後は愛妻殿がひいきの村田英雄の「人生劇場」です。人生劇場は楠木繁夫が最初に歌っているのです。村田の方がうまいと思います。楠木繁夫は次にしましょう。

 このCDを回していると気が落ち着くのです。バック・グラウンド・ミュージック(BGM)にして仕事するとはかどります。そして疲れません。夜は静かにかけて寝るのです。右脳が働いて、心身にとても良く効きます。但しこれらの曲は七十歳以上の人間に限ります。

 私はこのCDをBGMにして、心身が非常に休まるようになりました。疲れないのです。これは一度皆さんにお勧めする価値があると思います。是非ご自分のベストCDかMDを作られることをお勧めします。ほんとに驚くほどの効果が有ります。

 版権の問題があるので、各自で作って頂くほか有りませんが、作り方など頼りないのですが解るところは教授致します。

 制作中に、上等な音響システムは聞けないことがある。と出ましたがCDプレーヤーの相性があるらしく、3台あるプレーヤーの内2台は駄目で、安物の方がうまく音が出ます。本格的なプレーヤーほどうまく行きません。幸い車と安物のプレーヤーだけが音が出ますので、上機嫌で聴いております。

 これをかけながらドライブすると極楽です。人生楽しくなりますよ、運転が苦にならなくなりますそして気が若返ってと、良いことずくめのお守りです・・・と極力宣伝しておきます。

 
侍ニッポン裏話

 侍ニッポンの主人公新納鶴千代をシンノウツルチヨと読むのは間違いだと分かったのは全く偶然でした。徳山 環が歌う侍ニッポンは

人を斬るのが侍ならば
恋の未練がなぜ切れぬ
伸びたサカヤキ寂しくなでて
シンノウツルチヨ(新納鶴千代)にが笑い。

と歌っているのですから当然私はシンノウと思っていました。ところが郡司次郎正著「侍ニッポン」をインターネットで注文して読んで驚きました。新納鶴千代にニイロツルチヨとカナが振ってあるのです。新納鶴千代の父は薩摩藩の足軽で父の死後江戸へ出てきてどこにも勤めたことがない浪人だというのです。それがどうして滋賀彦根の伊井掃部頭直弼の落とし種なのか忘れましたが水戸の浪士が桜田門外で伊井大老を討ち果たすのです。

 郡司次郎正と言う作家は他に何か作品があるのでしょうがわかりません。読みにくい文章で悪文と言うのではないでしょうか。作詞は西條八十なのですが

    一 人を斬るのが侍ならば     二 昨日勤王明日は佐幕
       恋の未練がなぜ切れぬ       その日その日の出来心
       伸びた月代寂しく撫でて       どうせおいらは裏切り者よ
       新納鶴千代にが笑い         野暮な大小落とし差し

 と言うのですからたまりません。この文句にしびれていたら新納鶴千代は伊井大老の落とし子で桜田門外で大老を討つと言うのですから一層たまりません。映画ではどうなっているのか分かりませんが小説では少し違います。惚れた女の首を取りに行くのですから世間の話と少し違います。

 インターネットを見ていたらニイロがシンノウになった経緯が書いてあったのですがそれが事実は小説より奇なりという話です。以下にそれを写します。インターネットに出ていた文章です。

            「ニイロ」が「シンノウ」に

  歌手・徳山環(たまき)が1942年(昭和17年)、敗血症のため死去した39歳。
  セミクラシックのバリトン歌手と流行歌の両方をこなし、さらに古川緑波一座に参加して俳優としても大活躍した多才な人である。明治末期の3年7月27日、神奈川県藤沢市生まれ。東京音楽学校(現・東京芸大)声楽科を28年に卒業、翌年創立した武蔵野音楽学校の講師に招かれる。歌手一本で立とうと2年後に辞任,日本ビクターに入社した。当時、声楽界の最高学府を卒業して流行歌に転じた人は、藤山一郎と徳山くらいしかいない。

 最初のヒット曲は『侍ニッポン』(31年)で、伊藤大輔監督、大河内伝次郎主演による同題日活映画の主題歌。幕末の大老伊井直弼の落とし胤・新納鶴千代が、それとは知らず父の命を狙う波乱に富んだ物語である。これが映画ともども大ヒットした。勤王か佐幕か。恋か義か。揺れ動く若い浪士の心情が、当時の青年の気持ちに、ぴったり合ったのだった。

 ところが作詞の西條八十は大失敗をやらかす。徳山がレコーディングに立ち会った西條に、「先生、これはシンノウでいいんですね」と念を押したのに、「ああ、そうだよ」と自信たっぷりに答えたのだ。ディレクター以下のスタッフも、だれも疑問を抱かなかった。

 出来上がったレコードを聴いて仰天したのは原作者の郡司次郎正(ぐんじ・じろうまさ)である。直ぐに訂正を申し出たが、当時の録音は現在と違ってミキサーの指先一本で修正できるものではない。伴奏と歌の同時録音で莫大な制作費がかかる。ビクターは平謝りしてシンノウで通してしまった。

 歌が流行すると、全国の活動弁士(無声映画の説明者)もみんなシンノウと言い始めた。かくてニイロツルチヨはシンノウツルチヨのまま現代に至っている。世界にも例のない珍事件といえる。

 徳山はその後、『ルンペン節』『さくら音頭』でも大当たりし、トップ歌手に列した。その一方、35年に古川緑波一座に参加。(中略)

 「太平洋戦争の開始直後、日本大勝利に沸き立つ中で急死した。」とあります。

 軽快で愉快な曲です。西條八十も原作を読んでいたのかどうか、これに懲りたのでしょうか、春陽堂の春陽文庫にはちゃんとフリガナがが打ってあるのです。西條八十も春陽文庫を読めば良かったのでしょう。

 
終 の 棲 家  -2-

  名張を引き上げて大阪に移ることになりました。大阪の家は親父が建てたモノですが名張に住むことにして売却してしまいました。罰当たりなことでしたが親父はこれは仮の住まいだ、いずれ郊外で建てると言っていたのですから罰も当たるまいと、不動産が値下がりしてきたので思い切って売却して正解だったと思っています。とにかく家を転々と移って、本人は住所不定と笑っていたのですが郵便物が転々と転送されてきました。返送されたモノもあったのではないかと不安です。もし着かずに返送になったモノがあったときはお許し下さい。

  間の悪いときは次々と問題が起こり、身辺はバタバタし通しでこの1年は夢のように過ぎ去っていきました。結構忙しかったのですがその間CDの編集に取り組みやっと何とか仕上げることが出来ました。

  終の棲家と言う言葉があります。家内が脚、特に膝を悪くして歩行が困難になり、家の中でも杖をついて伝い歩きのようなことになりました。買い物に行くのも傘をさせません。そこで大阪でマンションに住むことにしました。丁度玉造に商店街に面したマンションが建築中で便利性から考えてここに住むことに致しました。これが終の棲家になると思います。名張は2400万で売却しました。えらい損ですが私は住んだだけで満足しています。

血液サラサラ薬で歯のかけらを抜いて出血が止まらず死に損なった話は前回に書きました。ところが昨年10月に心筋梗塞でまたまた死に損なうのですから、あきれたものです。

  私は血液検査をしていつも検査項目が真ん中に集まり、コレステロールも中性脂肪も尿酸値も血糖値も高くはないのです。家内はいつも何かしら高くて薬を貰って居たのですが、家内ではなく私が突然心筋梗塞を起こして救急車で入院して、心臓にカテーテルを入れて造影剤で心臓の血管が詰まっているのを見ることになるのですから、世の中一寸先は闇です。本当に晴天の霹靂、驚きと同時にあきれてしまいました。

  それに驚いたことに、心筋梗塞で心臓が止まりかけているのに、本人は平気なのですから、お前死にかけてるのにそんなこともワカランのかと言いたいくらいです。

 本当に死の影は音もなく忍び寄ると言うのが当たっていると思います。私は血液検査の結果問題がなかったのにと言う思いがあって、だいぶ調べてみたのですが、どうもその辺がはっきりしません。心臓病の本やインターネットでも血管が詰まる説明とか詰まって治し方は書いてあるのに、予防や詰まっているかどうかの検査については触れられていません。肩すかしを食わされる感じで気になって居たのですが、貴方の血管は半分詰まっているよとか、7割方詰まっているとかが分かれば良いなと思いました。入院して驚いたことに6人部屋だったのですが、2人が脚の血管も詰まって歩けないのです。血管は心臓も脚も詰まりだしたら、どこでも詰まるらしいのです。年齢は私と同年代かあまり離れていません。

 血管が詰まると言うことが私にとって大問題になってきました。心臓にカテーテルを入れてやれば造影剤で一目瞭然、私でも一瞬で分かりました。だが誰でも受けられる方法ではありません。私など頭が古いものだから、心臓カテーテルは脚の血管から血管を切開して入れるものだとばかり思って居たのです。同室の患者は昨年(平成15年)にやったときは脚から入れて三日間身体が動かせず大変苦しかったのに今回は腕から入れて3〜4時間安静にしていれば良いので、非常に楽であったと喜んでいました。技術の進歩は目を見張るばかりで日進月歩恐ろしいくらいです。

  科も心臓外科かと思いましたが、循環器内科なのです。これも大きな驚きでした。心臓の動脈にカテーテルを入れて風船を膨らましたりステントと言う金属の網状の管を入れて膨らませたりと、自在に出来るのです。それが内科の先生ですから、私にはブラックジャックに見えました。後で塘先生に聞くと、心臓にカテーテルを入れるのは前から内科だそうです。私など何でも当てずっぽうで考えて、ええ加減な話で、実に頼りないことです。こんな頼りない男の文章など読めば損しまっせ、全く。

 家内は、膝が悪くなって家の中でも杖を付いて、伝い歩きのようなコトになってやむを得ず都心にマンションを買うことにしました。名張の家は売りに出して安く叩かれて売りました。駅に近いので売れるのは心配しなかったのですが、なにぶん大阪から買いに来る客が居ないのです。地元の人しか買わないのです。仕事を離れたら田舎でのんびり暮らしたいと考えるのは人の子として当然ですが、年をとると田舎は住めなくなるのです。

  見積もりに来た運送業者は、今売りに出してはるのは年寄りで夫婦のどちらかが倒れたところだと言うのです。全く自分のことを言われているような気がしました。杖をついて傘がさせません。そこでアーケードのある商店街に面したマンションを見つけてきてそこに住むことにしました。

  私が心筋梗塞を起こした話と、家内がNTT病院で人工関節を入れた話は次回にゆずります。随分面白い話があるのですが、今回は書けませんでした。

  先生の話エエトコデ切れるのや。とまた言われそうですが、精一杯書きました。疲れてきたので、ここらでご勘弁を。くだらない話を読んで頂いてありがとう御座います。言いたい事言うて、書きたい事書いて有り難いと思っています。感謝します。

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