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  経営者ニュース   No.46 2004/5/2

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ご挨拶
ダーウィンを越えて−今西進化論講義
日本語の意味
終の棲家


  ご挨拶

 ゴールデンウィークの素晴らしい季節になりました。すっかりご無沙汰いたしまして申し訳ありません。

山野につつじが、藤が、ぼたんが、シャクナゲが色とりどりに咲き乱れていることでしょう。

 経営者ニュースを制作しようと張り切って居ましたが、またまた伏兵が居りまして危うく一命を落とすところでした。とこれはいつもの誇大宣伝で、本当のところは実に単純な馬鹿馬鹿しい話で、(誰やいつものコッチャと言うとんのんは)他人には馬鹿馬鹿しいのですが本人にしては驚天動地危うく死にかけたとなるのです。

 先日、話しているときに前歯が折れました。と言うより一部欠けたというのでしょう。割れたと言うのが正確かもしれません。左上の犬歯です。すぐにいつもの寺野歯科へ駆け込みました。根がぐらついていますが抜けていません。それも欠けた一部ですから、指でも抜けるような感覚です。ところが麻酔を二カ所打たれて、ペンチの厄介になる始末です。犬歯ですから根が深いのでしょう。これで一週間ほどほっておいて、歯茎が固まれば、型を取ってかぶせるかしたら一丁上がりです。簡単なことです全く安心していました。ところが二日ほどして夜中に歯茎から出血しました。余り気にもとめず居ましたが、また二日ほどしてから出血です。いつも夜の夜中にたちが悪いというのか、運が悪いというのか夜中ばかりです。

 奥歯の親不知ならともかく、犬歯のかけらを抜いただけで五日も経っているのにおかしいなと思いながら歯医者へ行きました。ところが全然血など出ないのです。先生はドリルでジャージャー穴をあけて心棒を入れて人工歯を作って型を取って連休明けにきて下さいと言うことで。私は納得して帰りました。出血については先生に話したのですが現実に血が出ていないのだから、うまく説明できなかったのでしょう。血液サラサラにする薬を飲んでいることも話したのですが、その薬のせいでしょう。と言うことでした。

 そう言われているのに私はサラサラ薬を飲むのを止めなかったのです。薬はバファリンの小児用のようなものでほんの小さい小さい一粒です。頭痛の時に飲むバファリンは一センチくらいの大きい錠剤でそれを二粒も飲むのです。だからこんな小さい粒一つくらいでそれも朝一回だけです。効くのかなと言う小馬鹿にしたところがあって飲むのを止めなかったのです。そのせいか馬鹿にした罰が当たってか翌日の夜になると出血が始まりました。私はそのうちに自然に止まるから心配いらんとタカをくくって寝ていました。

今度はなかなか止まりません。それでもそのうちに自然に止血すると構えていました。ところが結果として朝まで血が止まらず。かなりの出血になりました。若いときに肺結核で喀血をイヤと言うほど経験した私はこんなものくらいでどうなることもない、あとで血のしたたる肉でも食えばすぐに取り返せるという自負がありました。4年ほど前に鼻血が出たときも、何じゃこんなものという気持ちで厄介だけれど心配はしませんでした。結核の喀血で血が止まらずに主治医が「輸血するか」とつぶやいたときは心細かったのですがその時は血に噎せて窒息する事を恐れました。

今回は歯茎から出ているのです。見える位置にあり手の届くところです。なにも恐れることはない。と心配はして居ませんでした。それでも四時まで眠れませんでした。次から次から血が止まらないのです。

  それでも疲れて四時になると眠くなって眠りました。目が覚めると五時です。辺りを見回すと、まくらは血だらけで、シーツやパジャマも血だらけです。やむを得ず六時に起きだして、居間のいすに腰掛けてテレビをつけました。九時になったら歯科医へ行くべきか内科へ行くべきかどちらを先に行くべきか考えました。その間も出血は止まりません。七時になりました。まだ早いから八時半くらいになったら車で出かけよう、朝飯は食べられないな。と考えていました。八時ころ胸が悪くなりました。自分の血を大分飲んだから生肝の食べ過ぎだなあ、むかついても不思議じゃあないわ。と考えていたのですが、胸が悪くなってきたのでトイレに行こうとして立ち上がりかけたところ、目の前が真っ暗になってイカン脳貧血やと畳の上に倒れ込みました。急にしんどくなって立ち上がれません。自分で車を運転どころではないのです。救急車も考えましたが、大げさに騒ぐのも憚られると息子を頼むことにして電話してもらいました。

  すぐに息子が駆けつけてくれました。しかし車まで3Mか5Mほどのところが歩いて行けません。這うように車に乗って曽我部医院へかつぎ込まれました。医院へ入っていくと直ぐに婦長さんが飛んできて奧の点滴室へ連れて行かれました。10Mほどは自分で歩けませんでした。ベッドに横たわると直ちに血圧が測られます。上が60下が30と怒鳴るように言われて、四・五人の看護士さんが走り回って「点滴」「足と背中を暖める温パッド」再び「血圧測定」と一糸乱れぬ看護です。そのうちに血圧50に上がりました。と報告があってやや安心というゆとりが出てきました。

昨夜あれだけ止まらなかった血が全く出ません。オチョクットンのカイナと言いたいくらいです。出血も心理的な要素が大きいようです。いつも夜中です。そう言えば4年前の鼻血も夜中でした。喀血は昼が多かったのですが、療養所へ入ってからは夜中が多かったと思い出しました。喀血したり、出血したりするのに、意識が関係しているとは思いも寄らぬ事でした。しかしよく考えてみると確かに関係しています。必ずいつもとは限りませんが私の体験からすると、無意識か意識的か意志の力で押さえたり延ばしたり出来ると断定出来るようです。

  税理士試験の受験の時に、京阪電車の中で喀血が始まり文字どうり必死の覚悟で受験してその間は完璧に喀血を押さえ切って答案提出後にまた喀血が始まったことがありました。決死の覚悟で臨めば喀血も止まると言うことです。人間には恐ろしい位の能力があります。

  そんなこんなで遅れています。連休を利用して印刷製本をやりたいと思っています。生身のからだは出来上がるまで油断は出来ません。優しく体をいたわりながら作業を続ける積もりです。

  皆様のご多幸と健壮を祈りあげます。しょうむない文章を読んでいただいて心から御礼申し上げます。

 
ダーウィンを越えて−今西進化論講義

  以下は、インターネットから取りだしたもので、ダーウィンの進化論に替わる今西錦司博士の進化論と言われるもので、一般常識がいかに間違っているか、という例として挙げました。

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《進化は、変わるべくして変わる!》書評:『ダーウィンを越えて』
今西進化論講義  今西錦司  吉本隆明 著    朝日出版社

『ダーウィンを越えて』

 私の書評も、いよいよ今回で最後になりました。そこで、最後を締めくくる一冊として選んだのが、今回取り上げる『ダーウィンを越えて−今西進化論講義』です。
 クワガタの個体変異や地域変異について、様々な考え方があるなかで、その根底に流れているダーウィン流の進化理論が、自然科学的に証明されたものでも何でもない、単なる一説に過ぎないことを、この本を通じて認識していただきたく思い、取り上げました。世間一般の常識が、いかに脆弱な土台の上に築かれているものか、知っていただければ幸いです。
 そもそも、ダーウィンの進化理論と言えば、『種の起源』に記されているように、知る人ぞ知る自然淘汰説であり、適者生存説なのですが、それを証明する化石等の証拠は、何一つ得られていないのが現状です。
 『種の起源』によると、進化は種個体、あるいは少数の種個体から始まると考えられており、この特定の種個体のことを、今日のネオ・ダーウィニズムでは突然変異と呼んでいます。
形態にしろ行動にしろ、この突然変異によって発生した個体が他者と比較して、生存するための優位性を持っていること、すなわち適者である場合にのみ競争に勝ち残り、その反面、生存競争に敗れたものは死滅するというのが、ダーウィニズムの本質であると言えます。
しかし、この考え方は、もともとイギリスの経済学者のマルサスが、その著書『人口論』で述べた考え方を援用したことに過ぎず、人間社会の現象を生物社会に取り入れただけと考えられます。
 そもそも、マルサスの人口論(正確には人口の原理と訳す)とは、「人口の増加は等比級数的であるのに対し、食料の生産は等差級数的にしか伸びないから、一部の人間の貧乏・飢餓は一種の自然現象として不可避である」と言うものであって、適者生存、自然淘汰(自然選択)を社会理論として唱えたものですが、資本主義が勃興し始めていた当時のヨーロッパには、この考え方は非常に都合が良く、ここちよく思えたに違いないありません。そして、その流れは現代まで連綿と続いているのです。
 「進化は歴史であって検証できない」と、イギリスの哲学者ポッパーが早くから唱えているにも関わらず、ダーウィンの進化理論がすでに検証済みのように認知されていることは悲しいことです。誰しも学生時代、生物の時間にダーウィンの進化論を学んだことがあると思いますが、教科書に書かれていることがすべて正しいとは限りません。むしろ、そのことを疑ってかかることが真の教育だと思うのですが、今日の偏差値教育社会では、夢物語でしょう。

 さて、すでにご存じの方も多いかと思いますが、今西錦司氏は日本の社会人類学、生態学の草分けで、サルの研究を通じた霊長類の研究の指導者でもあり、有名な登山家としても知られています。
 今西氏の進化理論は、『棲み分け理論』と呼ばれるように、「進化とは、種社会の棲み分けの密度化であり、個体から始まるのではなく、種社会を構成している種個体の全体が、変わるべきときがきたら、皆一斉に変わるのである」と言う表現に要約できるかと思います。
 正確さを欠くかもしれませんが、「ある種から新しい種が生まれても、従来種は駆逐されることなく、新しい種と共存してゆくものであり、その発生事態も突然変異などによる偶発的なものでなく、環境の変化などによって、時期が来たら複数の個体が、あたかも化学反応のように、同時多発的に変化してゆく現象が進化である」と、言い換えることができそうです。
 ダーウィンの進化理論が競争原理に基づいているのと比較して、今西氏のそれは共存原理に基づいていると解釈することが可能ですし、特徴だとも言えます。どちらが正しいかは、最初にも述べたように、検証することができないので、決めつけることは出来ませんが、それぞれ違った進化理論として認めて行くのが、現状では妥当なのかと思いました。
 私が今西進化論を知るきっかけは、学生時代にクラブで山登りをしていた時に、先輩から有名な登山家として名前を聞いたのが最初だったのですが、氏の著作を読んで行くうちに、その独創的な理論に魅力を感じるようになりました。
氏は、賀茂川に棲息するヒラタカゲロウの生態を観察するうちに、この理論を生み出すヒントを掴んだようですが、私もクワガタを採集しに行く度に、同一地域にいろんな種類のクワガタや、その他の昆虫が共存している事実を見る限り、進化とは棲み分けの密度化であると言う氏の考え方を、個人的に支持しています。
それに、我々の見る生物的自然が競争の場でなくて、種社会の平和共存する場であるという考え方に、否応なしに共鳴してしまうのも、性格から来るのかも知れません。
 競争が好きで、勝ち負けを最優先する人々には、受け入れ難い考え方だと思いますが、クワ馬鹿最後の投稿として紹介させていただきました。
最後まで読んでいただき、ほんとうにありがとうございました。 さようなら!


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  以上がインターネットから取りだしたものです。

  昆虫のクワガタ愛好家のネットワークのクワ馬鹿というサイトに書き込まれていたものです。(インターネットの事を知らない人のために解説しました。)世の中にはいろんな人が居ると思い知らされます。インターネットの良いところは誰でも好きなことが自由に書いたり発表したり出来ることです。勿論道徳的に反すること、反社会的なことは駄目ですが、クワガタムシに情熱を燃やしている人が居ると知っただけでもむかし昆虫少年だった私もうれしくなってきます。だから生きているのがこんなにうれしいのです。有り難い世の中だと思います。常識になっていることを疑ってかかる事の大切さを忘れてはいけません。日本人は農耕種族だから一斉に田植え、草取り、刈り入れ、とみんなで一斉にする癖があります。狩猟民族は人の裏をかいたり、人の行かないところへ行って狩猟しないと獲物が捕れません。だから自主独立の精神が出来たのでしょう。異端者を認める事が大事だと思います。大阪はややそんなところがあるように思うのですが皆さんはどう思われるのでしょう。

 
日本語の意味

 76歳になっても、知らない日本語があるもので、例えば丸髷・銀杏返し・島田・桃割れなどと言う日本髪(と言うのもなつかし言葉だが)の種類だと言うことぐらいは分かっているのだが、髪型の写真(実物でも良いのだが)を見せられて、何処がどう違っているから丸髷だ、島田だとか区別が付く人はどれだけいるのだろう。まして銀杏返しと言われてピンと頭に思い浮かべられる人は、70歳以上の男でどれだけ居るのだろう。

 私などは、モームスの矢口や、加護ちゃん、辻ちゃんの区別はできるのに、文金高島田というから嫁入りの時の花嫁が高島田というのは知っているが、実際にどんなものか詳しいことは知らない。というていたらくであります。

 この知名度と実際の区別が出来る人の割合を調べてみたら面白いのではないだろうか。それに「褄を取る」と言う褄なんて何処だか分かる人(70歳以上の男性)はどれくらい居るのだろう。

 宮津口だとか、付下げ・兵児帯(ヘコオビと読む)裾模様・名古屋帯・着尺など着物用語もどうだろう。

 それにもっと怪しいものに、俗曲・新内・都々逸・小唄・長唄・端唄・義大夫・謡い等々邦楽はどうだろう。私など親父の影響で虎造の「石松の代参」だとか米若の「佐渡情話」という浪曲なら知って居る程度で都々逸と小唄の区別も怪しいものです。ましてや長唄と端唄の区別、俗曲と新内に至っては見当も付きません。

 昨年の秋に新内の解説を黒田さんから受けたのですが、驚いたことに新内は「男」の語る(うたう)ものだそうで、新内流しというのは男に限るものだとは、初めて知りました。新内は語るのかうたうのか、それも分かりません。「うたう」をワープロで変換しようとしたら、歌う・唄う・詠う・謳う・謡う・唱うと出ました。「新内語り」という言葉を聞いたことがあるのを思い出しましたから新内は語るのでしょう。

 どうも昭和生まれでは日本の古典芸能はむりのようです。義大夫は女義大夫と言うくらいだから女も唸れますが(うなれると打ったところ唸れる・呻れる・うなれると出ました。)なんだかだんだん分からなくなって来ました。墓穴を掘ったようです。

 情けないことに、物語にしてもお染め久松・お夏清十郎・八百屋お七吉三などの話も名前だけは知っているが内容は殆ど知らないのと同様で、軍国主義の時代に育った世代の悲哀なのかも知れません。

 邦楽器にしても琴三味線は別として夏目漱石も「我が輩は猫である」に書いているように、三味線の二上がり三下がりが分からないと嘆いて、一弦琴のお匠さんの事を書いて一弦琴のなんたるかを説明しています。少なくとも漱石の時代には漱石の筋向かいに一弦琴のお匠さんが居たようだと言うことは間違いないようです。私など一弦琴と言うものなど見たことも聞いたこともない人生を歩んで来たので見当も付きません。

 ところで、邦楽洋楽の区別について最近面白いことを発見しました。まだ断定するのに自信はないので確かめてみたいのですが、私がレコードを買いに行った頃は、邦楽と言えば先ほども書きました俗曲・新内・都々逸・小唄・長唄・端唄・義大夫・謡い等を指したものですが、今は邦楽と言えば日本人の作曲・演奏・歌唱になる曲を言い、外人の作曲・演奏・歌唱になるものを洋楽と区分するらしいのです。確かに売っているレコードの数からすると、この方が合理的な分け方なのでしょう。今はCDの数ですが……

 時代はめまぐるしく変わります、テレビが地上波デジタルと盛んに宣伝しています。年末などデジタルのテレビが売り切れてしまったようです。小売り電気店で売るデジタルテレビが無いと店主が嘆いていました。店頭の見本のテレビまで売れてしまったようです。景気が悪いのは何処の国のことでしょうか、日本は恵まれています。戦前戦後の事を知っている私など恵まれすぎているとしか思えません。技術の進歩、科学の発達目を見張るものがあります。

 レコードも78回転のSPからドーナッツ版、LPからカセット、CD・MDとめまぐるしく進歩発展して今やDVDに来ました。映像も銀盤写真、乾板、フイルムと進歩してモノクロからカラーへ写真から活動写真へ、私にも写せますの8ミリからビデオへと変わりました、そのビデオもDVDに変わりつつあります。息子などは先日ビデオテープを100本以上廃棄しました。恐ろしいくらいの変化です。

 私など1万枚ほどの写真のアルバムに大きな書棚を占拠されてフウフウ言っています。この写真の整理にはお手上げです。おそらく息子は「親父のやつこんなもの残しやがって」とぼやく姿が見えるようです。こんなものを負の遺産と言うのでしょう。出来るだけ負の遺産は残さないようにと考えているのですが及ばないように思えます。

 1万枚の写真と言っても今では一枚のDVDに収まるのではないでしょうか、保管場所に困る必要など更々ないわけです。ところが、いざDVDに収めようとすればスキャナーで取り込んでデジタル化してDVDに書き込む事になる訳でして膨大なその作業を考えると手がすくんでしまいます。

 機械化して便利には確かになったのだけれど、再変換したり、収納先を変えたりするととても時間がとられます。それだけ今まで出来なかったことが出来るようになり便利にはなったのですが要らない用事が格段に増加したように思えます。私も暇と根気があれば1万枚の写真をDVDに収めるのでしょうが、とても不可能のように思えます。

 まだまだ便利さが中途半端なのでしょう。これからもっともっと便利になると思います。携帯電話が便利になって居所が分かったり、写真の電送が出来たり、テレビが見られたり、地図が出てきたり、だんだん万能になって行くようです。デジタル化の成果です。地震の予知も出来たり、その内に運命の予知も出来る事になるかも知れません。

  侍ニッポン

昨日勤王、明日は佐幕
その日その日の出来心
どうせ俺いらは裏切り者よ
野暮な大小おとし差し

人を斬るのがサムライならば
恋の未練がなぜ切れぬ
のびた月代(サカヤキ)
さびしくなでて
新納鶴千代(シンノウツルチヨ)
にが笑い

流れ流れて
大利根越えて
人は二の丸三の丸
俺も生きたや
人間らしく梅の花咲く
春じゃモノ

命取ろうか女を取ろか
死ぬも生きるも
五分と五分
泣いて笑って
鯉口きれば
江戸の桜田雪が降る


  新納鶴千代とはどんな人か私は知らなかったのです。そこで何でも調べるインターネットで調べるとあの有名な桜田門外で有名な彦根藩の殿様井伊直弼を斬ったのは新納鶴千代だと分かりました。郡司次郎正と言う作家の侍ニッポンに出てくる人物だと分かりました。勿論小説のことで本当かどうかは知りません。そして大きな伏線としてシンノウツルチヨは井伊直弼の落とし子だったのです。水戸浪士が切り込んだ時にそれを知った鶴千代が駆けつけて伊井大老を斬り殺すのです。そして自分も討ち死にするのです。

  昨日勤王明日は佐幕  その日その日の出来心

私にぴったりです。そのいい加減さにしびれていたのですが、桜田門外の変で有名な事件の当事者で親子の関係と聞いてなおシビレてしまいました。もとより小説のことです。そんなはずはありますまい。それでも今でも歌に歌われて居るのは大衆の心に響くモノがあるからなのでしょう。琴線に触れるモノがあるのでしょう。

  大雪の降る桜田門外で伊井大老を水戸の浪士がおそったのは余りにも有名です。「桜田門外の変」戦前に習った歴史で良く覚えています。水戸は梅でも有名です。歌の中にポイントは全部入っています。

  それにしても昔の歌は良かった。と言えば老人の繰り言になるのですが、『どうせ一度は、あの世とやらへ、落ちて流れて行く身じゃないか、啼くな夜明けの啼くな夜明けの渡り鳥。』実に哲学的ではありまへんか。

  『離ればなれに散ろうとも花の都の靖国神社花の小枝で咲いて会およ。』と死んでいった兵隊たちの心情を汲んでやって欲しいのです。総理大臣が年頭にお参りに行ってなにが悪いのですか。もっともっとお参りに行ってやって欲しいのです。私は軍隊が昔から嫌いです。それでも国を守るために死んだ兵隊の気持ちやその家族特にお母さんの気持ちを察してやって欲しいのです。

  イラクに自衛隊が行きました。何十人かは死ぬことを覚悟しています。国民はみんなそれを知っています。そして誰も口に出さないのです。迫撃砲を撃ち込まれて二十人か三十人の兵隊が死ぬのは簡単です。このときの死は殉職ですか。前の外交官二人の死は殉職です。外交官が死んでも戦死とは言いません。自衛隊は軍隊ではないと言い張っても、誰が考えても軍隊です。軍人が戦闘で死んだら戦死です。靖国神社へ祭らんといけまへん。キリスト教とか創価学会で宗教上拒否する人は別にして国民感情からして靖国神社へお祭りしないといけません。イヤだけれどやらないかんこともあるのです。なんでイラクのために日本人が死ななイカネン。そやけどせんならんときもあるねん。それで死んだらどないすんねん。一億円くらい弔慰金払って、靖国神社へお祭りして、新年、お盆に総理がお参りして。国民も敬意を払ってそれで収まるのと違いますか。

  そやからわたしは靖国神社へ総理が行くのが当然だというのです。そやないと特攻で行って死んだ奴、可哀そ過ぎまっせ。同級生で特攻へ行った奴がおりまんねん。勉強良くできて体力も気力も並はずれに良かった奴やのに、欠点は真面目すぎるところやった。私は「誰が特攻なんか行くもんか」とそのときは思っていました。でも「特攻へ行く奴はあほや」とは思いませんでした。もっと真剣でした。偉い奴やなあ、と言うのがそのときの印象です。

  自衛隊は軍隊では無いというバカな奴が居ます。今になっても「軍隊と違う」なんて、世界の人々は100人の内100人が軍隊と認識しているはずです。政府は嘘・偽りをいつまでも、いつまでもついてはいけません。信頼がユラグからです。短期的に外交上うそを言うのは許されるとされています。

  しかし、程度と中身によります。改憲の必要があるなら、真剣に国民に話して改憲してキチンとした対応をとるべきです。国民はバカではありません。

「東条英機などの戦犯を祭ってあるからイカン。」と言うのが近隣諸国の言いぐさです。しかしドイツには戦犯は居ても(ユダヤ人抹殺を計って計画的に殺人をしたのです)日本にはそんな計画はなかったのです。北のソ連の共産主義の侵攻を恐れて、満州へ進出して、我が国の防衛線にして、東南アジアの欧米の植民地を解放すると言う崇高な?目的があったのです。日本が侵略したというなら、それ以前に、欧米各国がすでに侵略して居たことを何で非難しないのですか。

  アジア諸国の植民地からの解放に一番手を貸したのはどこの国なのでしょう。隣国の韓国や中国に多大な迷惑をかけたことは悪いと謝ります。

 
終 の 棲 家

 終の棲家という言葉があります。名張の家は立地条件がとても気に入っているのですが、何しろ建て売りの家ですから間取りが気に入りません。書院造りの座敷は気に入っているのですが、リビングがだだっ広くて使いにくいのです。それに座敷の隣の居間が狭くて4方が扉(引き戸です)で全く落ち着きません。それに狭くて致命的な欠点です。家はその人の全思想が出ると言いますが、全くその通りです。

 それに家内が大阪でないとイヤだというのには閉口です。一人で生活してみましたが、漬け物を漬け、関東炊きを炊いて炊事は慣れましたが手間がかないません。そして足腰が弱って車に乗れなくなると田舎では生活が出来ません。近鉄百貨店(なにぶん田舎ですから百貨店と言うより五十貨店か三十貨店と言うところです。)まで歩いて5〜6分で行けるとしても、あちこちにあるスーパーへはとても行けません。今は車で何カ所かある大型書店などに簡単に行けて便利なのですが、とうとう我を折って離れることになりそうです。

 まだまだ終の棲家のつもりはありません。宿替えはこりごりですが、まだまだ放浪生活が続きそうです。住所不定と前から言ってるのですが、本当に住所不定になりそうです。公園で水色のシートの世話にはならないつもりですが。嫁はんに放り出されそうです。どこのうちでもいろいろ苦労はあるようで、苦労を苦労と思わない私の特性が生きてくるのでしょうか。

 子供の時から体が弱くて苦労しました。しょっちゅう風邪をひいて、熱を出していました。おなかを壊して下痢ばかりしていました。肩を凝らして親に肩をもんで貰いました。(小学校の時です)歯が悪くて、歯医者の常連でした。どれだけのお医者さんに看て貰ったことでしょう。それが76歳でぴんぴんしています。身体を大事に大事に使ってきたからでしょう。医者代を何も言わずに払ってきてくれた両親のお陰です。(そのころは健康保険がなかったので全部自費でした。)今頃感謝しても、親はもう居りません。家内と結婚してから食事が変わりました。時代も良い方に変わって、栄養のある食事を食べるようになったのです。肉食になってきたのです。好き嫌いは子供の時はありましたが今は殆どありません。ナットウとタマネギの生が食べれないだけです。

 それだけ努力をしてきたからなのでしょう。弱いなら弱いだけに工夫してそれなりの成果なのです。同窓会は生き残り倶楽部のつもりです。前立腺ガンを患いながらの壮絶な戦いです。と言えば言い過ぎですが、ややそんなところもあるのではないでしょうか。そして仮に最後まで生き残ったとしましょう。その時はとても淋しいと思うのではないでしょうか。友達は誰もいないのだから。私はそれくらいの気力で暮らして居ります。

 なにぶんやることが多すぎて時間が足りません。何も出来ないのにやたら忙しく感じている私の日常です。今も夜中の2時半です。みんなは今頃よく寝てるのだろうなと思いながら、ワープロしています。午前3時半を回って4時になりかけました。今から眠ることにします。

 定年で会社を辞めて、今住んでいる所が随分気に入って暮らしているのに「あっ」という間に病気でさよならをする人を何人か見てきました。私はもう少し頑張るつもりでしたが、家のものの反対には勝てません。足腰が丈夫な内に手放すことにしようかと考えています。

 一時は自宅が三軒になりました。生活の用具をなるべく買わないようにしてきましたがそれでも随分の量になっています。これをどうするのかが大問題です。気力も尽きるように思います。阪神大震災の惨状を見て家具や什器のたぐいは要らないと腹の底から思いました。それが一軒にまとめようとすると膨大な物資が整理する必要とされるのです

 考えただけで宿替えの気力が消失します。大阪で暮らすのはまっぴらの筈です。それが望むところと違って、名張から撤退のうきめにあいそうで自分で自分を哀れんでいます。家族に言わせると、自分勝手でわがままを言ってきたのだから当然のように言われます。さすがに自分が哀れに思えてきます。弱り目に祟り目、稼いでいるときは押さえられていたものが、稼げなくなると逆襲をくらうことになるのでしょう。自業自得とはこういうことを言うのでしょうか。

 私にはやりたいこと、成し遂げたいことがあります。寸暇を惜しんでやりたいことがあるのです。必死にやっても出来るかどうか分かりません。それでも成し遂げられなくともやり抜くつもりです。何か目鼻も付いてきたようにも思います。それはあまり人に言いたくないのですが、内緒にしておくことも出来ないので白状しますと、超常現象です。

 常識でとてもあり得ないと思えること、常識に反すること、人に言えば笑われること、です。あざ笑う顔が見えるようです。だから書くのはイヤだったのです。でもそれでもやりたいのだから世話ありません。大笑いして下さい。その方が気が楽です。大阪の、吉本の、ギャグだと思って下さい。

 バターピーから芽を出させたとか、家に忘れてきた草稿が会場へ湧いて出たとか、エビフライのエビが生き返ったとか、手品やマジックでなくて奇妙な話がまことしやかに言われています。その真偽を確かめるのではなくて、確認したいのです。

 アホかと言われるのが落ちです。だがそうは言い切れないものがあるのです。本日は3月9日です。満77才になりました。耄碌した親父が何言うとんねん、と家族は思うでしょう。アルツハイマーやと思われても致し方ありません。かねがねアルツハイマーのアルツハまで来ているというのが私の口癖です。いよいよアルツハまで来たかと思われかねません。この辺で終わりにします。

 名張の家が終の棲家だとは初めから思っておりません。体が弱ってくると大阪市内のマンションに棲むのが良いのかなと思います。人生の最後はどんなところに棲むのでしょうか。

 肺病を患った関係で、喉が弱く空気の良いところで住みたいという望みがあります。それも叶わぬ事なのでしょうか。

 3月9日77歳の誕生日に決心したことがあります。森羅万象研究会を立ち上げて10年懸かりで研究してみようと言う遠大な計画です。途中で人生サヨナラの可能性が大です。そのときはそのときで良し、なればなったで良し。
『きのう勤皇、あしたは佐幕』とこれが性に合って居るのです。

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