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  経営者ニュース   No.43 2002/5/31

−目  次−


ご挨拶
経営者の眼(資本主義の崩壊)
情けは人のためならず
白内障の手術


  ご挨拶
  前回から1年以上経過してしまいました。封筒で送るのはやめにしてインターネットでと思いましたが、機械の故障やウインドウがつぶれて、まごまごしている内に一年5ヶ月が経過しました。

  インターネットの講習会も考えましたが昔と違って、今はフロッピーベースではなくハードデスクになっているので、データーが壊れるとたいへんなことになるので、事務所の機械を使うことは出来ませんでした。機械1台では講習会など出来ないので、言い放しになってご免なさい。やりたいと申し込まれた方もあったのですが、たいへん失礼しました。

  昨年4月には再び宿替えをし、少し落ち着いたと思ったら、また、この5月宿替えになりました。今度は落ち着くつもりですが、さすがに3年で3回の移転は応えます。家内には「宿替え貧乏」と責められるし、とんと宿替えはいやになりました。いま名張の桔梗が丘に居ます。名張に住みたいという、かねてからの希望がようやく叶えられてとても嬉しゆぅ御座います。

これも私が癌になったからでしょうか。癌に罹っても随分明るく、毎日生活しております。

  田端義夫全集と懐メロ180曲のCDを買ってガンガン鳴らして居ります。昭和17年頃の雰囲気です。モノラルも良いものです。気分は16歳位の時代に戻っています。

田端の「別れ船」のレコードは、私が最初に買ったレコードです。当時のレコードはボール紙にエボナイトを両面に塗ったもので、保管中にボール紙が剥がれてバラバラになってしまいました。モノラルで録音されていて電気ギターの伴奏がとても目新しく聞き惚れたものです。戦時中で反戦歌とも言える寂しすぎるこの曲は、憲兵から東京で歌うことを禁止されました。そのため田端は戦後10年ほど「別れ船」は東京では歌わなかったものです。その原曲が入っているので嬉しくなっちゃって、すごくご機嫌です。

  それにとても体調がよろしい。漢方薬(煎じ薬)のせいもあるのでしょう。日赤で血液検査の結果もとても良いと検査表を貰ってきました。数値は全部正常の範囲内に収まっています。5時に起きて鹿島宮までお参りに行って来ました。ツツジは終わりましたが、いろいろな花が咲き乱れています。帰ってきたら腹が減ったので、冷凍してあった餅を焼いてぜんざいに入れて(大きな切り餅2個)食べました。朝食です。

 
経営者の眼(資本主義の崩壊)

  資本主義が崩壊すると言われています。1991年にソ連が崩壊しました。那須 聖と言う人が本を書いてものの見事にソ連の崩壊を予言し的中させました。

  高木善之さんは1981年に単車で交通事故に遭い三日三晩意識不明になったときに、
   1.10年後にソビエト連邦が解体し
  2.20年後にアメリカがおかしくなる
  3.40年後に人類が滅亡する
という未来を見てきたそうです。

  予知夢とでも言うのでしょうか当たる当たらぬは八卦と同じとも言えますが、ソビエト連邦は1991年に解体し、2001年アメリカが怪しくなってきました。アメリカは多発テロに戦争を仕掛けました。テロに強圧で立ち向かっても勝ち目はないと思われます。いくらアメリカが強大でも世界中に散らばるテロリストに勝利できるとは思えません。アメリカがおかしくなった理由です。

  すると、2021年頃に人類が滅亡するというのもあながち一笑に付す訳にもいきません。確かに温暖化、食料不足、オゾンホール、ゴミ、環境、政治不信、デフレスパイラル、医療費も健康保険がパンクしそうですし数え上げればキリがありません。

  世界経済が拡大するのはもう無理なのではないでしょうか、中国13億人の生活水準が引き上げられて、一家に一台か二台の自家用車、冷暖房と考えると排気ガスが西風に乗って来て日本が駄目になるような気がします。

  資本主義は、もっと消費を、もっと生産をとアクセルを踏み続ける必要が有るのです。それが資本主義なのです。既に資本主義は限界に来ているか限界に近づいたと考えるのが妥当でしょう。地球は無限のように思えました。しかし、限界があったのです。資本主義が崩壊するか、人間が絶滅するかというところまで来たか、近いうちに来そうに思います。

  前回7号から8号へ11年中断しました。1号から7号までは和文タイプで打っています。8号からパソコンのワープロで打っているのです。7号で中断したのはパソコンにのめり込んだからです。ちなみに8号は1991年10月発行です。ソ連が崩壊したときです。1号は1979年10月発行です。丁度尿路結石のことが書いてあるので、尿路結石が23年前に始まったのだと云うことが分かりました。私は漠然と3年くらいに一回起こって10回くらい経験しているので、30年くらい前だと思っていたのですが、記憶の頼りなさを痛感しました。特に物忘れがひどいのでとんでもない記憶違いをしていないか心配です。

  阪神大震災の時に、多くの人がボランテア活動を始めました。未だ続けている人も居ます。その時私でも何か出来ることが有ればと思いました。これは資本主義に反する事です。共に助け合ってと言う心は元来日本人が共有して来たものではないでしょうか。

  社会主義が壊滅して、資本主義が生き残りました。私は資本主義の勝利だと思いました。しかし、識者は資本主義も保たないと言うのです。なぜ資本主義も崩壊するというのでしょうか。このあたりを調べてみたいと言うのがこの文章の真意です。

この堅固な資本主義が倒れるとはとても思えません。人の欲望は生まれつきで、他人をけ落としてでも自分ははい上がりたいと思うものです。競争は適者生存、敗者滅亡が自然のあり方だと思うのです。ダーウインの進化論はそう言うことです。
ダーウインの進化論が間違いだと言う人が居ます。誰でしょう、誰だと思いますか?

  それが日本人です。京大の今西錦司先生です。先生は、棲み分け理論で生物は(植物も含めて)みんな棲み分けで共生して来たというのです。『ダーウインを越えて』と言う本で今西錦司・吉本隆明著 朝日出版社刊の中で棲み分け理論を展開されているそうです。インターネットの中で、この本の書評が有ったのですが、「ダーウインの進化論が自然科学的に証明されたものでも何でもない、単なる一説に過ぎないことを認識していただきたく思い、世間一般の常識が、いかに脆弱な土台の上に築かれているものか、知っていただければ幸いです」とあります。

 弱肉強食は自然ではないと言う人も出てきました。「競争社会を越えて」(ノーコンテストの時代)法政大学出版局刊と言う本を書いたアルフィ・コーンと言う人です。アメリカ心理学会賞を受けています。

 かなり学術的な本で原注の説明だけで65ページ有ります。それも少し小さい活字でびっしりと書いてあります。参考文献も英語(原語)で25ページ細かい横文字でこれもびっしりと書いてあります。定価も4800円でまず私は買わないたぐいの本です。それを買って、少しページをぺらぺらめくって、終わりにした本です。時間が出来たらゆっくり読むつもりです。

  天動説が常識の時に、地動説を唱えて迫害された人も居ます。゛聖戦、神風゛の時代に日本が負けると云った先生も居ます。私の母校の英語の先生です。配属将校のいる時です。さすがに日本が負けるではなく、ドイツが負けると云ったのですがたいしたものです。私でも、戦争末期(昭和20年5月)には日本が負けると確信しました。

(戦争が始まったニュースを聞いたときは直感的に「日清日露」はうまく勝てたが今度は負ける、アメリカに負けるとひらめきました。)

  競争の時代から共生の時代に移ると言われてもとまどうだけです。次の時代が見えて居ますでしょうか、私には想像もつきません。識者はここ2・3年で資本主義の崩壊が始まるというのです。これは長生きして見届けたいものです。こんな見物は又と有りません。

  不謹慎かも知れません、それでもワクワクする楽しみではありませんか。癌で5年くらいで死ぬわけにはイカンのです。あと10年くらい欲しいです。(10年経ったらもう5年と言うに決まっているのに)横着なものですネ。

  テロも「生物兵器だ」「原爆だ」と物騒なことが議論されています。パキスタンとかイラクとか、日本人にあまり馴染みのないところの戦争で関心が薄いのも分かりますが、資本主義が終わるという事については身近の事でおろそかにすることは出来ないので、じっくり考えて見たいと思います。

  またまた、船井先生ですが、「断末魔の資本主義」と言う本を出されました。2001年1月31日刊です。

  2010年頃までに、資本主義は崩壊するのではないか。と言うのです。その理由、次の時代の予想までいろいろ書いてあるのですが、とにかく日本が戦争に負けて評論家が一億総懺悔を叫んだ時よりひどいことになりそうです。何しろ世界中がひっくり返るのですからとても並大抵のことでは済むわけがありません。経済戦争は地球人類の負けと決まっています。江戸時代の封建制の崩壊、幕府の崩壊、廃藩置県の創始、それ以上の激動が始まるのでしょうか。理屈からすればそうなるはずです。各国の政府が吹き飛んで、無政府状態すら考えられます。

  銀行が危ない(本当のところ世界一大きくなったみずほ銀行も危ないらしいです。どんがらだけが大きくなってもキチンと出来ない銀行なんて存在価値が無いのですから、退場願って良いわけです。)大きくなって政府もつぶせ無いと云うのは、戦争のときの神風頼りの軍部と国民みたいなもので、頼りにならない見本のようなものです。本当にみずほ銀行は駄目らしいです。

  細かいことは、分かりませんがどう考えても、“駄目なものは駄目”(社民党の党首みたいですが)です。資本主義が保たない。人類が生き延びるためには、着実な努力、想像を絶する飛躍、心の回心が必要なのでは無いでしょうか。

  国(政府)が崩壊する危険があります、日本の場合それほど恐れることもあるまいと思いますが、地震の時に暴動や略奪が起こった国もあります。無政府状態になったときに、暴徒が大挙して押し寄せないとは言えません。元警察官や元自衛官を雇って地域で自衛する必要も出るかも知れません。自己責任自己責任とやかましく云われるのは、最悪其処まで考える必要があると言うことなのでは無いのでしょうか。

  其処までは行かないとしても、銀行がつぶれて支払いが出来なくなるときは、一千万円まで保証されていますが、預金封鎖が行われる可能性が有ります。昭和20年頃に先例があります。そして生活費程度しか引き出せなくて、その間にインフレが進行して預金1万円で饅頭10個しか買えない時代になって終わりになるのと違いますやろか。

  預金は現金にしてタンスは危ないから、貸金庫に入れるのが一番安全なのかも分かりません。前の時は現金も新円と引き替えになって旧円は使えなくなりました。そんなあほなことがあるかいなと思う方は、1994年1月5日号で木津信が危ないと書いています。と言うことは1993年12月に書いているわけだから、2002年5月の今日から10年前に書いているのです。その時殆どの人は、そんな馬鹿なことあるかいなと思った筈です。預金封鎖は起こるかどうかは分かりませんが、可能性は充分有ると云うことです。銀行の内容は本当にたいへん悪いようです。憂慮する必要がある段階まで来ていると考えて置いても良いと思います。(以下次号)

 
情けは人のためならず

 2月19日に入院して10日経過しました。入院したときは満開だった梅も散ってしまって櫻まで少し時間があります。今日(3月1日金曜日)は好天気で全く気持ちがよい。朝9時に入浴して極楽気分です。

  入院してから、検査、検査、検査で暮らしてきましたが、それも全部終了して手術を待つだけになりました。

 前立腺造影検査・膀胱圧力検査・エコー検査・心電図・肺機能検査そして前立腺の生検(生体検査のこと)まで全部クリヤーして、予定では腰椎麻酔だが、全身麻酔にも耐えうるとの診断が出ました。今日の午後4:00〜6:00の間に先生から手術と麻酔の説明があって、あとはマナ板の鯉という心境です。

  ここで少し振り返ってみれば、生まれて75年良く保ったものだと思います。この、日赤の建物は昭和6年に建ったらしのですが、その当時は東洋一と言う評判が高かったとそうです。確かにこの南病棟は、病室の北側に正式な廊下があり、その上南側に、先生や看護婦さんが通る少し幅の狭い廊下が付いている。

  そして、談話室と言うかロビーがあって、窓越しの太陽を浴びながら、椰子や蘇鉄の大木を眺めて過ごせるのは、近年では不可能と思われる贅沢さであります。

  文化財的な価値がありそうな建造物だが、効率を考えれば、取り壊すしかないのだろう。堅牢な鉄筋コンクリート造りで、陸軍台頭時の昭和6年から日支事変のさなか、おそらく、戦争時には陸軍病院として機能することを考慮に入れて、作られたものと思われる。

  爆撃されることも、若干考慮に入れられて作られたものと考えられるが、建築された当時、東洋一と称されたのもむべなるかなと思われる建物です。

  既に、70年を経過して、老朽化の故をもって近く(数年以内に)取り壊されると言う。戯作者に退場と書かれたようなものです。我が身に比べて自分も昭和2年に製造されて(生まれて)75歳になると、そろそろ老朽化したから、退場と言われても止むを得ないのだろうかと反省したりして居ます。戦時中日赤病院の入り口に母方の伯父が、寿司屋をやっていて、よく遊びに行って泊まったりしましたが、当時日赤は陸軍病院となっていて傷痍軍人がたくさん出入りしていて、恐ろしかった思い出があり(当時子供の私は、軍人の姿をみると怖かった)変な思い出があるのです。戦い済んで50数年、東洋一を誇った病棟が建て替えられると知って色々思い出す事を書いてみました。

  明日手術です。腰椎麻酔だし、心配は一切無いのですが、眼の手術(白内障)をして(白内障は白内症とは書かず障と書きます。病気ではないと言うことなのでしょうか)とても世の中が明るくなって、人生が明るくなって、<生まれたての眼>になって、『日本全国のサクラを見て回ったろう』と思って、九州から行くとして、大阪から志布志湾を経て鹿児島へフェリーで渡ってまずどこへ行くかと地図を見たら、戦中派としては特攻基地となった知覧が近くに有るのです、そこから振り出しに出掛けようと考えました。

  本当は行きたくないところです。しかし避けて通るわけには行きません。つらいのですが矢張り日本人は忘れてはいけないのです。17歳位から20何歳の、子供から若者までの人達が国のためと思い込んで、散って行ったのです。のうのうと生きる私達は、本当に心から彼等に感謝すべきだと思います。毎月一回特攻の日を作って、その日一日は断食して謝すべきだと思うくらいです。

  そう言うだけで、私は何もしていませんが、それに沖縄へ行ったとき姫百合の塔で、危うく涙しそうになって、一枚も写真を写せなかった人間として、その時もう沖縄へは行きたくないと思いました、そんな私が知覧の特攻の家へ行って泣かずに居られるのだろうかと気になるのですが、それでも行かないと申し訳がないような気がします。

  直視したくないのです。それでも行って涙しないと気が済まないのです。大阪から、わざわざ九州の知覧まで出かける気にはなれません、しかし鹿児島まで行って知覧へ行かないで置くことは出来ません。そんな気持ちで居たのですが伏兵が居りました。『その旅行待った』と、声が掛かりました。

  膀胱に石が溜まっていたのです。前立腺も大きくなっていて、米粒より小さい尿路結石が、腎臓から膀胱へ行く尿路を通過するときは、あまり痛くなかったのに、膀胱を出て、前立腺を通るときは色々いたずらをして苦しみました。丁度眼の手術をした前後です。正確に言うと昨年10月頃に血尿があり、尿路結石だと分かりました。右側の尿路に少し痛みがあり、時々チクッーと痛みが走りました。始めコーヒー色だった血尿が、石が下がって来るにつれて色が少し宛赤くなっていきました。そして膀胱に入ったと言う感覚があって、やれやれこれで、「一巻の終わり」の予定だったのですが、12月29日に1時間ほど歩いて来たら真っ赤な血尿が有り、少し驚きました。それまでは、オシッコの出始めは赤くても、オシッコをしている内に薄くなって無色になっていたのですが、今度は初めから終わりまで真っ赤な色はそのままで薄くならなかったのです。

  年末年始の休みが続く時で弱りましたが、1月7日、かかりつけの前田先生のところへ走りました。検尿の尿を採ったところ、随分濁っていました。先生は、一目見るなり「真っ白に蛋白が下りてるがな」と尿の培養検査に廻して置くからと説明されました。前立腺の触診もして貰いましたが「大きいけど柔らかいからガンではないだろう」と言うようなことでした。「1月10日に眼の手術を受けますので」と相談したところ、眼とは全然別だから差し支えないとの診断で、1月10日に右目の手術を受けました。すごくハッキリとキレイに見えます。未だ手術をしていない左眼と比べて見ると、すごく違うのでビックリしました。早速眼鏡屋に行ってサングラスを買ってきました。左目で白壁を見て、右目でその色に見えるサングラスを選んで買ってきました。

  随分茶色がかっています。自分では無色の「まなこ」をして居るつもりが、水晶体も日焼けするのか、メラニン色素で茶色に染まっているらしく、その上白内障だから濁って居るわけで、白内障と言うから白く濁っていると考えるのが人情だが、茶色くて濁っているのですから茶濁障とか渇濁障と言うてやるのが親切なのではあるまいか。本人は勿論生まれてから今まで外したたことのない色眼鏡で見ているようなものだし、家族も知らないのだし、こんな眼になっているのですよと、眼の診察をして白内障の手術を勧める時は、サングラスでも使って説明してやる必要があると思いました。インフォームドコンセプトだとか、難しいことを言っているようだが、本当のところ、こんな話が一番インフォームドコンセプトなのではないだろうか。こんな話が本当に必要なのだと医者や医療関係者に分かって貰いたいものだ。

  とにかくよく見える、生まれたての「眼」だと言いたくなる気持ちが分かって貰えるでしょうか、無色透明の水晶体のありがたさに感謝感激と記しておきます。

  そして、1月16日に左眼も手術しました。このときが尿路結石の一番状況の悪い時で、前立腺肥大症の狭い尿道を通る石は、さんざん私を苦しめて1月20日過ぎに通過しました。これで尿路結石は終わりになる筈でした。確かに石は出たように思うのに、また血尿が出るのです。今度は右とも左とも分かりません。何か今までと違うのです。おかしいなと思っていましたが、これがおおごとに成っていくのです。

  前田先生の紹介で府医師会の診療所でCTスキャン・造影撮影等をやって貰ったところ、膀胱に人差し指先くらいの石があることが分かりました。5年前の尿路結石が前立腺肥大のために出きらずに膀胱で止まって居て大きくなったのでしょう。散歩の後で血尿が出るのは、膀胱結石のせいだと判明しました。

  前立腺肥大と膀胱結石の手術としては、尿道の先から器具を入れて前立腺肥大を削りその上で膀胱の石を砕いて取り出すことも検討されましたが、出血が多いので、結局腹を切って前立腺肥大症の肥大部分を取り、膀胱の石も取り出すことに決まりました。

  その手術をするために、ガンがないか前立腺の生検をする事になり、生検は、東大阪市民病院の時は全身麻酔だったのに、今度は麻酔無しだと言うのです。大丈夫かなと心配しましたけど、殆ど痛みもなく無事終了しました。技術の進歩なのでしょう。その結果、ガンはないと言うことで、ホッとしました。

  3月4日午後手術実施。膀胱の石も取れ、肥大した前立腺もくるっと皮をむくように取れて、これで10年は手放しで安心となりました。腹の傷は思ったほど痛く無いのです。咳やくしゃみも出来るのです。西村部長の腕の冴えと思われます。

  これで、万々歳の筈が思わぬところに伏兵が存在しました。取り除いた前立腺を調べたところ、ガンが見つかったというのです。担当の前川先生は針を刺して生検をしたときに見つからなかったのだから、小さいガンでしょうと言うのです。普通前立腺ガンは前立腺の外側に出来ることが多いのですが、怪しいと思われる部位をねらって針を8カ所刺したのですが、其処にはなく、例外的に発生する中心部に有ったのではないか、と言うことで「それなら前立腺をクルット取って居るのだから、ガンは全部取れたのではないか」と聞くと、済まなさそうに、「取れた前立腺の表面にもガンが有った」と報告書に書いてあるのだという。

  それなら、どう考えてもガンが残っていることを認めないわけには行かない。普通なら、ここでエライコッチャとなるところですが、ガンは治ると言う時代ですから恐れることはありません。

  東京都東中野の横内医院で「末期ガンの治療承ります」と末期ガンでも治る時代ですから、初期の小さいガンなどものの数ではありません。

  但し、保険は利かないから、月に5万円程掛かります、5年で300万円くらいを予定しなければなりません。診察の、申し込みをして数ヶ月待ちの筈です。しかし、ご安心下さい待つことは有りません。1週間以内に撮った全身と半身の写真を送れば、オーリングテストと言う方法で、診断して薬を送って貰えます。

  早速私も写真を送りました。ところがうまくキャンセルがあり、3月26日に見て貰えることになりました。3月20日に退院して6日目です。家内も大腸ガン以来掛かって居ますので、一緒に受診する事になりました。家内は3回目です。オーリングでテストの結果、家内は後2年で完治する旨の診断で、やれやれ一安心です。

  私は、オーリングテストの結果、小さいガンが有ると分かりましたが、心配はいらんと診断されました。初めから心配していません。ただ、費用が掛かるのと、薬を煎じたり、漢方薬が飲みにくいか、胃が悪くならないかが心配です。日赤病院でもホルモン治療をすることになって、飲み薬と月に1回注射する治療を受けます。これで、私のガン対策は万全です。

  煎じ薬を処方して貰って、先生の「気」のはいった布を患部やツボに貼って治していきます。私は、今までガンに罹った人に、横内医院へ行くように勧めてきました。これは、私が今まで「気」とか、「オーリングテスト」とか、「超能力」とかを随分研究して来た結果の話で、昨日今日に思いついた話ではありません。「気」にしても、既に20年以上の研究の積み重ねが有りますし、オーリングテストにしても10数年来研究してきました。余談ですが、私も「気」を出せますし、「オーリングテスト」も出来ます。知らず知らずの内にそうなっていました。

  だから、横内先生の話は良く分かるのです。単なる思いつきや、単なるフロックではありません。すべて研究の結果が出てきたものです。

  その私が、ガンで横内医院に行くとは正直考えていませんでした。人のためにと一生懸命説いていたら、それが全部自分に返ってきたように思います。だから、「情けは人のためならず。」です。人にさんざん言うて来たせいでしょう。神に感謝しております。船井先生、横内先生、前田先生、西村先生、前川先生ありがとう御座います。

 
白内障の手術

  2002年正月13日(日曜日)腹が減って朝4時に目が覚めてしまった。やむなく起きてきたが、テレビをつけるわけにも行かず、(と言うのがこの話の骨子なのです。)

  実は、一昨日の1月10日、右目の白内障の手術を受けたのです。不安がなかったと言えば嘘になりますが、殆ど心配もしないで、却って希望の方が大きかった位です。

  急に目が悪くなってきたのは、既にご承知のことと存じますが、何しろ車の運転に支障があっては不自由で困ります。それで、渋々重い腰をやっと上げました。

  白内障というのは、目をカメラに例えると、カメラのレンズが白く濁って来たようなものですから、レンズを入れ直すか、磨き直すか、と言うのに似ています。

  手術は、簡単で西眼科では、同日24人ほどが手術を受けました。執刀時間は10分足らずで、前後の時間を入れても20〜25分位です。

  麻酔は、目薬をするだけですから、意識はハッキリしています。手術室へ搬入されますと、先生に挨拶する間もなく顔一面に半透明のビニールみたいなものを被せられます。目の回りを除き、顔一面にのりが付けられて居て皮膚にべっとりと接着します。うまく出来てるなと感心している内に目の上でと言うのか目の前でと言うのか、(仰向けに寝ているので、前が上になるのです。)なにやらぼんやり見えて、なにやらごちゃごちゃしている内に水晶体が吸い出されるような音がしています。「くずが残らぬように全部吸い取ってや」と願っていると、数回吸い取りと洗い流しが行われる。充分吸い取られたと納得がいった頃、音が止みました。これからレンズが入るのだなと、期待している内に手術は終わってしまった。レンズを入れる気配も何も分からない内に手術が進行して居ました。まったくチクリともしません。

  所要時間は、体感時間では、8分ぐらいの感覚です。そして間もなく手術室から搬出されました。搬入とか搬出とか本当はどう言うのか分かりませんが、実際の体験者の表現です。

  今回の手術は3ヶ月前に予約を入れてあったものです。ところが、昨年11月にコーヒー色の血尿が出て尿路結石が判明。そのうちに出るだろうと、いつもの調子でたかをくくっていたのが間違いの元、じりじり下がって膀胱へ落ち込んで一件落着の筈が、どっこい今回は前立腺で引っかかりました。年の瀬も押し詰まった12月29日真っ赤なおしっこが出てきてびっくり仰天、でもないが年末年始でややこしいことに成らねばと気にかかりましたが、やむを得ません。

  そのために不愉快な年末年始を送ることに成りました。なにぶん尿意が絶えず有ります。オシッコが沁みて沁みて、その上尿意が来たら待ったなし、とさんざんな正月になりました。1月9日に入院して目の手術を受けるのですから、明けて1月7日に成るのを待って、前田先生のところへ駆け込みました。

  検尿の結果、「真っ白に蛋白が下りてる」と言われて驚きましたが、「手術は関係がないから出来る」とのことで一安心しました。ところが午後から、下痢が始まり、8度3分の熱が出てきました。泣きっ面に蜂です。
明日熱が下がらないと、あさっての入院は駄目かと心配しましたが、お陰様で熱も下がり入院して手術におよびました。

  手術の後は、3時間安静にしてその後起きあがり、おそるおそる穴あき眼帯の穴から覗いてみます。かなりハッキリものが見えます。その後視力測定をし、先生からうまく行ってる旨の通知を受けて、天下を取ったような気持ちでベットに帰りました。

  翌日は、朝から7度2分の熱発です、結局午後は8度3分まで上がりました。何の熱か気を揉んでも仕方がないのに気になります。夜になって下がりましたが、何の熱か分からずじまいです。前立腺に引っかかってる石と、白くなるほど下りている蛋白との関連だろうと思いますが、看護婦さんは、「手術と慣れぬ環境とかいろいろの原因で一過性の発熱をする人が居るから」と、簡単にかたづけられてしまいました。

  そして、次の日は、待ちこがれた退院の日です。朝3時頃から目が覚めています。同室の2人も同じようにもぞもぞしている様子です。退院後の注意事項とか、次回の入院の段取りとかこまごま、聞かされて10時過ぎ病院を後にしました。

  手術を受けた人が、必ずといってよいほど語るのは、「よく見える」と言うこと。「テレビがもの凄くきれいだ」という事。等ですが私はピントが合うとか、ピンボケのことだと思って居たので、あまり関心がなかったのです。ところが違うのです。(ここからがこのお話の値打ちのところです。)

 ピントは勿論ですが、みんなはカラーのことを言っていたのです。テレビを見ると、もの凄くきれいに見えます。右目で見たり、左目で見たりするとその違いがハッキリします。ふすまを見比べると、右目は、まっさらの襖の白さが分かります。左目で見ると、30年間張り替えなかった陽に焼けた茶色っぽくなった襖としか見えません。と言うことは、私の水晶体は白く濁っているのではなく、茶色っぽく濁っていたのです。慣れは恐ろしいもので、白と思って見ていたのは、茶色っぽい襖だったのです。それを頭の中で、白色に変換処理をしていたのでしょう。まだテレビは長時間は禁止です。(これが冒頭のテレビをつけるわけにも行かないし)と言うことです。

  今まで何を見ていたのだろうと思いました。「千と千尋の神隠し」以上の変なものを見て、それが本当のものを見ている積もりで居たのです。

  長年の疲労した水晶体は何なんでしょう、無色透明のつもりで景色を見て綺麗とか、うまい画だとか、上手な写真だとか言って来たのは何だたのでしょう。自分自身に裏切られた気もします。しかし考えてみると、長年の酷使にも黙々と耐えて来た水晶体に、ありがとうの感謝のこころが足りなかったと言うより、全然感謝していなかった事に気が付きました。今頃になってようやく有り難かったと感謝の気持ちが湧いてきました。心から感謝致します。

  砕いた水晶体は、研究のために保存されると聞いておりますが、死しても人のために役立つとは、いかにも不憫。厚く慰霊もおかしいのですが、そんな気がしております。記念にもらって帰る人も居るようですが、神棚に祭って毎日感謝したい気もします。

  白内障ひとつとっても、掘り下げてみると大きな問題が有るようです。もう少し落ち着いて改めて考えてみたいと思います。

  患者の側からいろいろ感じたことを述べてみたいと思います。褐色の濁りの話をしたところ、介護の勉強をした人は、セロハンで色眼鏡を作って老人はこう見えているのだと実習したと言うのです。医師、看護婦、介護人にとっては常識になっていることでも、本人は知らなかったのです。情報がずれているのです。この辺の教育がもっとなされるとか、情報を発信する必要が有りそうです。家族はもっと情報不足に置かれています。

  私は、右目の手術が済み、左目がまだのこの時に、鶴橋まで出かけてサングラスを買ってきました。右目にサングラスをあてがいながら、白色のマッスを見ながら、右目で見て左目で見て色合わせをして驚きました。随分茶色ぽいのです。話のネタには、格好の小道具です。

  病院では、こんなサングラスを用意して、家族の人に「本人はこんな具合に見えているのですよ」と説明すれば良く納得されるのではないでしょうか。

  写真の用語でよく空気感があるとか、ないとか使います。レンズの光線の透過率のこともあるし、斜光線の当たり具合のこともあってなかなか難しい表現ですが、その空気感が出ているのです。テレビが透き通っているように見えます。ムチャクチャ綺麗に見えるので、生まれ変わったような新鮮さです。人生観まで変わるのではないかと思うほどです。

  人間はわがまま勝手なものです。さんざん酷使して衰えたら、人工のものを入れ替えてシャーシャーとして居ます。恩知らずです。アメリカ流医学では、部品の取り替えのように、移植したり、取り替えたりします。私の母も人工骨頭を入れて正座もできました。

  その時も、骨って何だと思いました。今回も水晶体て何だと思いました。脳以外は取り替えても、人格や性格は変わらないのでしょうか。大きな命題のようです。
生活の説明の中で洗面、調髪、洗髪、ひげ剃りの説明で、私は手術の翌日ひげ剃り可。と有りましたので、うっかり電気かみそりを使いました。目はつむっていましたが、ひげ剃りと電気かみそりの違いは、よく説明したらよいと思います。電気かみそりは、刈ったひげは少し飛び散るのではないでしょうか、飛び散る髭は眼にはいると良くないと思います。私は平常でも目に入ってチクチクするのを経験しています。日本カミソリや西洋剃刀や、安全カミソリで剃るのと、電気カミソリで刈り取るのとは違うように思います、術後の成果に少し関係するところがあるのではないでしょうか。素人の素朴な感想です。

  家内も一緒に手術を受けたのですが、彼女は子供の時から目が悪くて、メガネと言えば、牛乳瓶の底のようなレンズで目がくらくらするので補正しきれず、コンタクトを長年入れてきました。この度お陰さんで、生まれて初めて正常な目で景色が見えるのに、感激ひとしおならず、喜んでおります。

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